神の御心
神の主権において、また永遠において、自分のための計画をしました。その計画は「神の御心」と言います。それについて考えていきましょう。
贖いの聖約
聖書が語っている神を知ると、その神には計画があることがわかります。その計画はすべてを創造する前からあって、そして歴史を通して主がその計画を、計画の通りになされていることが分かります。その計画は神にいかにも栄光を返し、神様にとって最高のものです。
ここで、その計画のことを「神の御心」と言いますが、長老派や改革派の「聖約神学」では、この三位一体の神の中で決めた計画について「贖いの聖約」と言うこともあります。聖約神学では、聖書の教えている真理を人間同士でも交わす契約に例えて分析します。神の御心が三位一体の三位が互いに決めた役割などを契約に例えると下記のことが分かります。聖書を開いて、読んでみて、考えましょう。
① 表現 エペソ1:7, 14; 使徒20:28; 1コリント6:20; 1ペテロ1:18-21; マタイ26:28
② 肩書 1テモテ2:5-6; ヨブ19:25; へブル7:22; ローマ5:11; 1ヨハネ2:2
③ 永遠 使徒15:18; エペソ1:9; ルカ22:22; 使徒2:23; 詩篇2:7; ヨハネ1:14; ヨハネ1:1-3; 箴言8:22-32; 2テモテ1:9; エペソ1:3-5; 1ペテロ1:18-20
④ レビ レビ記などに紹介されるレビ人の生贄と儀式は、永遠にあったイエスの支払いの形、預言、約束を表した
⑤ 預言 ルカ2:9; マタイ3:13-17; ヨハネ5:21, 27, 36-37, 39; ヨハネ8:26; ヨハネ10:15, 17-18; ルカ24:25
⑥ 聖約の条規
1 贖われる人 ローマ8:29-30, 33; エペソ1:7-9; マタイ26:29; ヨハネ3:16; ヨハネ17:9; 黙示録5:9; 1テモテ2:4; 2ペテロ3:9; イザヤ53; 2コリント5:15; へブル10:14; ヨハネ10:15-16, 26; 使徒20:28; マタイ1:21; テトス2:14; マタイ7:23; ローマ8:34-35; ヨハネ17:9; 詩篇147:19-20; マタイ11:25
2 代 価 1ペテロ1:18; 詩篇49:8; ローマ5:19; へブル10:5-7, 10; イエスの人生は従う人生(ヨハネ全体); ルカ24:26; ヨハネ10:18...
3 メリット ....
4 方 法 使徒17:30; 1ヨハネ3:23; マタイ28:19-20; ヨハネ12:49-50; 8:16, 29; 6:38; 5:17; コロサイ1:16; 黙示録1:8
三位一体
神の御心について、上記では、三位一体の神の計画として調べましたが、そもそも三位一体についての理解が必要になります。聖書のはっきりした教えは、神は一つである。他にありません。
イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。
— イザヤ44:6-8
しかし、父なる神、子なる神、聖霊なる神についても、聖書が明確に教えています。三位一体を通して、主が御心を成し遂げます。御心を知りたい人は、三位一体の働きを知らなければなりません。父なる神は計画し、子なる神は実行し、聖霊なる神が力をつけます。
(父なる)神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と*主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
*(この「と」は同等であること指しながら、区別します)
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。(父なる)神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福(聖霊の祝福)をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、(父なる)神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、(父なる神の)御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(父なる)神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、(父なる)神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは(父なる)神の豊かな恵みによることです。(父なる)神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、(父なる)神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは(子なる神)彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、(父なる)神の栄光をほめたたえる者となるためです。またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは(父なる)神の民の贖いのためであり、(父なる)神の栄光がほめたたえられるためです。
— エペソ1:1-14
正統的な三位一体と違う教え(異端)
アリウス主義 「『子』と聖霊は被造物である」
サベリウス主義 「『父』、『子』、『聖霊』とは、時代によって神が自分を表す様式(mode)を変えていったもの」「一人三役のようなもの」
モナルキア主義 「父だけが神であり、イエスに宿ったのは神の『力』 にすぎない」
三神論 モルモン教のように複数神がいるとする
アタナシオス信条
誰にても救われるには、先ず公同的信仰を奉ずる事が必要である。
全体を欠けなく保持するに非ざれば、疑いも無く彼は永久に亡び行くであろう。
公同的信仰は次の通りである。すなわちわたしたちは三位一体の唯一の神、唯一である三位一体の神を位格を混同することなく、本質を分けることなく礼拝する。
なぜなら、父は一つの位格、子も他の位格、聖霊も他の位格であるからである。
しかし、父、子、聖霊の神性は全く一つであり、栄光は等しく、尊厳は共に永遠である。
このように、父は存在し、子も存在し、聖霊も存在する。
父は造られず、子も造られず、聖霊も造られたものではない。
父は測り知られず、子も測り知られず、聖霊も測り知られない。
父は永遠、子も永遠、聖霊も永遠である。
しかし、永遠の三つのものがあるのではなく、永遠のものが一つあるだけである。
造られないものが三つ、測り知れないものが三つあるのではなく、造られないものが一つ、測り知れないものが一つあるだけである。
同様に、父は全能、子も全能、聖霊も全能である。
しかも全能なものが三つあるのではなく、神はただ一つである。
それゆえ、父は神、子も神、聖霊も神である。
しかし、神が三つあるのではなく。神はただ一つである。
同様に、父は主、子も主、聖霊も主である。
しかし、主が三つあるのではなく、主は一つあるだけである。
キリスト教の真理によればそれぞれの位格は神であり、主であると信認せざるを得ない。
それゆえ、公同的信仰によれば、三つの神、三つの主について語ることを禁ずる。
父は何ものからも作られず、創造されず、生まれたのでもない。
子は父のみからのもの、作られず、創造されず、生まれたものである。
聖霊は父と子からのもの、作られず、創造されず、生まれず、しかし、出ているのである。
それゆえ、一つの父であって三つの父でなく、一つの子であって三つの子でなく、一つの聖霊であって三つの聖霊ではない。
そして、三位には相互に前も後もなく、いずれも他よりも大、あるいは小というのではない。
しかし、三位はみな共に永遠であり、共に等しい。
このように、すべてのことにおいて、前に述べたように三位は一体において、また一体は三位において拝まれるべきである。
それゆえ、救われたいと願うものは三位一体の神をそのように思うべきである。
さらに、主イエス・キリストの受肉を正しく信ずることは永遠の救いに必要である。
なぜなら、正しい信仰とはわたしたちの主イエス・キリスト、神のみ子は、神であり人であると信じ、告白することだからである。
神であるとは父の本質から、この世に先立ってお生まれになったからであり、人であるとは母の本質から、この世にお産まれになったからである。
完全な神また完全な人で、理性ある魂と人間の肉体をもって存在された。
神性については父と等しく、人生については父に劣る。
神また人であるが、二つのではなく一つのキリストである。
一つであるのは神性が肉体に変化したのではなく、人生を神のうちにお取りになられたことによる。
全く一つであるのは、本質の混同によるのではなく、位格が一つであることによる。
理性ある魂と肉体が一つの人であるように、神と人は一つのキリストである。
わたしたちの救いのために苦難を受け、陰府に下り、死人のうちからよみがえり、天に昇り、全能の神、父の右に座し、そこから生きている人と死んだ人を裁くために来られる。
主が来られるとき、すべての人はその肉体をもってよみがえり、おのおの自分の行いについて申し開きをするであろう。
善を行ったものは永遠の命に入り、悪を行ったものは永遠の火に入る。
これが公同的信仰であり、これを心から忠実に信じなければ救われることはありえない。
参考
質問
①三位一体はどのように理解しているかについて、述べてください。
②エペソ1:1-14において、神の御心(計画)について、何が分かりますか?
③教会の歴史の中、アタナシオス信条ほど明確にするべきと議論されてきました。アタナシオス信条を読んで、どう思いますか?