主権

権威と服従

 この本の1章を読むと、神の主権について分かります。まことに、神は王の王、主の主であります。神以上の権威や力は一つもありません。そして、その権威と力の中で、神が決めたことについて、成し遂げる能力はあります。どれだけ被造物である、霊的な権力でも、人間の「自由意志」でも、神の計画を止めることができません。この真理を知った私達には主に従うか、従わないか、それだけにかかっています。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

— ヨハネ 14:23-24

 主に従うためには、主の御心を知る必要があります。主の御心を知るには、自分の感情や牧師の説教なら、どれだけ優れたものにしても、人間から来るので、間違いがあります。そのために、主が直接、だれでも分かるために、聖書という御言葉を与えてくださいました。聖書に従順になるなら、主に従順になります。

永遠とは

 主の主権と力の他に、聖書を理解していくために重要な特徴があります。神は永遠の神であることです。永遠とは、私達人間が経験する時間の外にいて、生きています。すべての人間の歴史、現在、将来、その最初から最後までを外から年表のように一目で同時に見ておられます。そして、その中で動いておられます。

 その意味は、神の永遠の視点から見ておられる方にとって、大昔に生きていたアブラハムも、2000年前に地上にいたイエス様も、今、生きている私達も、これから産まれて来る世代も、全部、「同時」といったら少し変になるけど、同時に見ておられる。この現象も聖書の中で見れます。

(イエス:)「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。

イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。

— ヨハネ8:56-58

 最初から最後を全部見ておられる主は、預言者たちに明確に将来のことを教えたり、見せたりすることも聖書の中で多く紹介されます。ダビデが詩篇22篇ではっきりとイエスの苦難を見て、それを書き記しました。時間を超えて、イエスの十字架はすべての人間の希望です。(ヘブル13:20-21)

ただのイメージです。こうであるとは言い切れません。永遠の定義は「時の外」としても神学的に問題はないと思います。

ただのイメージです。こうであるとは言い切れません。永遠の定義は「時の外」としても神学的に問題はないと思います。

 マタイ17:1-8に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエスの栄光の姿を見ます。その時、モーセもエリヤも登場します。そして父なる神の声が言います。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」 モーセは出エジプト記33:18-23で神の栄光を見ます。エリヤは1列王記19:11-13などのシーンで神の栄光と出会います。SFに出てくるようなタイムスリップと言いませんが、これらの聖句に、「永遠」のミステリーがあります。そのほかにも多くありますが、主は永遠の神であること、時間にしばられていないこと、時間を創造しその上にある権力であることを覚えて聖書を読むと、自然的だけに読むと解釈が難しいことが理解しやすくなるものもあります。


リーディングプラン権威と服従 1章

リーディングプラン

権威と服従 1章

質問

①主の権威について、自分の自由意志とどのようにかかわっていると思いますか。

②ヨハネ8:56-58では、アブラハムはどのようにイエスの日を見たと思いますか。