東京神学校

黙示録研究

黙示録研究

 

1、黙示録の解釈において、あなたは過去主義、歴史主義、未来主義などいろいろな解釈の立場がありますが、そのどの立場に立った解釈しますか。どうしてそういう立場に立つのですか。

 

 尾山先生は未来主義が一番自然な読み方でしょうと教えてくださいました。

 

 黙示録は二つの事を示しています。イエスキリストという「マン」と、神の計画という「プラン」ですが、1章1節から、プランよりもマン、イエスキリストについての啓示を読みながらうけるべきだと思います。

 

しかし、神の計画、その「プラン」について、ヨハネが見た黙示については、「ἐγενόμην ἐν Πνεύματι」「私は霊にいた」と言います。霊に見たことを述べている。また、「σημεῖον μέγα ὤφθη ἐν τῷ οὐρανῷ」「天に偉大なしるしが現れた」などと言います。天に見たことを述べている。比喩的な解釈をせず、ヨハネは実際に霊において、天の視点から見たものを書き記そうとしたと思います。

 

私はこの霊の視点、天の視点、神の視点を「永遠の視点」と言います。黙示録は、永遠から永遠まで、すべての人類の歴史と未来についてのプランと思います。なので、ただ過去でもなく、ただ未来でもない、総合的な永遠から永遠までの啓示と思っています。時間の外から見た啓示です。

 

従って、ヨハネが黙示録に書き記す様々のしるしは時間的に一列の順番に出てくると思っていません。ダニエルの2、7、8、9、11-12のように、黙示録は、それぞれの出来事をさまざまの形で見たと思います。

 

この霊的「永遠の視点」を持ち、逐語的に文字の通りに読むなら、千年王国など、黙示録の解釈は変わります。5問目、8問目、10問目の回答も参考にしてください。



 

2、この書物は、ほかの聖書の箇所とは違った書き方がされています。なぜこのような一見奇異に思われる書き方をしているのでしょうか。

 

 尾山先生は迫害されている中、見つかっても理解ができないようにわざとそうしていると教えてくださいました。確かに、未信者にとって、理解ができず、開いていないものになっています。

 

 また、ヨハネは「霊において」見たものを書き記そうとしていますが、「霊」にあるものは、この世の言葉に表しがたいものも沢山あると思います。例えば、獣の見た目は、実際に見たものをできる限りギリシア語で表現しようとしたが、言葉が足りていなくて「獣」としか表せなかったと思います。

 

3、1章20節、2章1,8,12,18節、3章1,7,14節には、「教会の使者」という言葉があります。この「使者」を、新改訳は「御使い」と訳し、新共同訳は「天使」と訳し、現代訳は「責任者」と訳しています。どれが一番よく当てはまっていると思いますか。

 

  尾山先生は「責任者」が良いと教えてくださいました。教会のリーダーを指すという立場も分かります。

 

  ギリシア語で「ἄγγελος」の意味は「知らせを持って遣わされたもの」です。新約聖書の他の箇所ではこのメッセンジャーは人間である場合もあり、霊的な存在である天使(参考:英:angel=ギリシア語: ἄγγελος)である場合もあります。人間か天使かが不明瞭の場合、「知らせるもの」という機能を示すギリシア語において元の意味に立つ言葉が良いと思いますので、「使者」が良いではないかと思います。

 

4、「ヨハネが受けたキリストの啓示」(黙示録)のアウトラインを作ってください。

1.         イエスキリストの啓示 1:1-20

2.         7つの教会への手紙 2:1-3:22

(ア)   第一の教会 エペソ

(イ)   第二の教会 スミルナ

(ウ)   第三の教会 ペルガモ

(エ)   第四の教会 テアテラ

(オ)   第五の教会 サルデス

(カ)   第六の教会 フィラデルフィヤ

(キ)   第七の教会 ラオデキヤ

3.         天の啓示 4:1-5:14

(ア)   創造主への歌 4:1-4:11

(イ)   贖い主への歌 5:1-5:14

4.         7つの封印を解く 6:1-8:1

(ア)   第一の封印 白い馬 勝利

(イ)   第二の封印 赤い馬 戦争

(ウ)   第三の封印 黒い馬 飢饉

(エ)   第四の封印 青ざめた馬 死

(オ)   第五の封印 殉教者 復讐を祈っている

(カ)   第六の封印 小羊 怒り
*幕間:144000人の印、御座の前の大勢の群衆 7:1-7:17

(キ)   第七の封印 天が鎮まる

5.         7つのラッパ 8:2-11:19

(ア)   第一のラッパ 血の混じった雹と火

(イ)   第二のラッパ 火の燃えている大きな山のようなもの 

(ウ)   第三のラッパ 星が天から落ち 

(エ)   第四のラッパ 太陽、月、星の三分の一が暗くなった
*幕間:3つの災いが来る 天使の忠告 8:13

(オ)   第五のラッパ 第一の災い 底知れぬ穴が開く いなごの災い

(カ)   第六のラッパ 第二の災い 四人の天使 騎兵の災い
*幕間:七つの雷 小さな巻物 都の破壊 10:1-11:14

(キ)   第七のラッパ 主は永遠に支配される
*幕間:女、竜、子供のしるし12:1-17
*幕間:海の獣、陸の獣 子羊と144000人 天使の歌と収穫 13:1-14:20

6.         7つの鉢 15:1-16:21

(ア)   第一の鉢 ひどい悪性のはれもの

(イ)   第二の鉢 海は死者の血のような血になった

(ウ)   第三の鉢 川と水の源は血になった

(エ)   第四の鉢 太陽は火で人々を焼く

(オ)   第五の鉢 獣の国は暗くなった

(カ)   第六の鉢 かえるのような汚れた霊 ハルマゲドン

(キ)   第七の鉢 「成就した」 バビロンの裁き

7.         バビロンの裁き 17:1-18:24

8.         天の喜び、小羊の婚宴 19:1-10

9.         キリストが来て、最後の裁判 19:11-22:5

(ア)   「王の王、主の主」

(イ)   神の敵が殺される

(ウ)   サタンが縛られる

(エ)   千年王国

(オ)   サタンが解放されて、神の最終勝利

(カ)   大きな白い御座の裁き

(キ)   新しい天と新しい地、新しいエルサレム

10.     結び

 



 

5、千年王国について、三つの解釈がありますが、あなたはどの解釈を支持しますか。その理由を述べてください。

  尾山先生は前千年王国の方が自然を教えてくださいました。逐語的に読む多くの人はそう教えています。私も、伝統的な三つの解釈の中では、前千年王国が逐語的な読み方に近いと思います。しかし、私が逐語的に聖書を読んでも、代表的な三つの解釈のどれもを100%そうであると確信できません。

 

比喩的な聖書解釈を受け入れませんので、無千年王国論は拒みます。「千年王国」はあると思います。

 

70年の神殿破壊の時に実現されたと解釈できるものが多くあり、後千年王国論の解釈の当てはまる内容の多さに驚きます。しかし、全世界に影響するような出来事などをどうとらえるか、イメージの多くを全く別のものに解釈していかないといけないので、後千年王国論だと文字の通りに読むことができなくなり、部分的に同意できません。といいながら、同様に、黙示録の内容をダニエル2、ダニエル7、ダニエル8、ダニエル9、ダニエル11-12、テサロニケの「不法の人」、マタイ23-25、マルコ13、ルカ21など多くの箇所と比べてみると、70年の神殿破壊の時に、実現されたように見える内容が多くありますので、完全な未来主義も同意しがたいのです。

 

1問目の回答に示したように、ヨハネは霊において永遠から見た天の視点を持って、逐語的に読むと、後千年王国論の指摘も、前千年王国論の指摘も解決できると思います。

 

ここで、千年王国にはどのような特徴があるかを見てみます。4節~6節を読むと、イエスを信じた人は千年間の間、治めたこと、これは「第一の復活」と言います。

 

「第一の復活」について、ヨハネ11:24-25を見ると、将来の復活ではなく、イエスが現在形を利用して「私は復活である」と言います。そして、使徒の働き26:23でイエスは十字架にかけられた後、死からの最初の復活を過去形で遂げていると言います。黙示録1:5-6では、この「死者の中から最初に復活した方」は過去形で「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった」。いつそうしたでしょう?エペソ2:5-6、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし[た]、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ[た]ともに天の所にすわらせてくださいました。」この「生かした」と「よみがらせた」、二つともギリシャ語で過去形です。

 

 また「千年」という一句はギリシャ語で「χίλια ἔτη」。黙示録20章以外に、聖書全体では後一か所しかありません。2ペテロ3の中に、終末論について教えている前後の文のなかで、2ペテロ3:8「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」。主にとって、永遠の視点からみると「千年」とは人間の時間に関係ありません。尾山先生も「千年」の数字を象徴的にとらえていると教えてくださいました。

 

すなわち、恵みによって救われた時に、クリスチャンになった時、第一の復活を受けて、霊において回復しましたと聖書は教えています。ということであれば、「千年」のタイミングは少し救済論によりますが、創造された時から終末まですべての時に、救われた人達はイエスとともに治めていることも、聖書の中に見受けられます。人間のクロノス全体に「千年王国」があると思います。再度、黙示録20を読んでみます。

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私はこのような「Pan-millennial」解釈を持っています。

6、ハルマゲドンの戦いは、どういう性質の戦いでしょうか。

  尾山先生は霊的な戦いで、地上の国々がエルサレムの周りで戦うというわけではありませんと教えてくださいました。

 

  「ハルマゲドン」とは「メギドの丘」のギリシャ語です。旧約聖書では、「メギド」という地名は12回出てきますが、その内、何回かは、イスラエルの戦場となっていた。例えば、2歴代誌35:20-23と2列王記23:29-30には、ユダの王、ヨシヤがユーフラテス川に行って戦おうとしているエジプトの王ネコと、メギドで戦って死にます。このメギドとは、ユダヤ人の王国の最後の良い王が殺された場所です。

 

新約聖書では「ハルマゲドン」という言葉があるのは、黙示録16:16だけです。まず、16章16節の文脈を見ます。6つ目の鉢のことですので、7つの鉢を持っている天使のところから見ます。

 

黙示録15:1-2

また私(ヨハネ)は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。

 

 ここで、二つのポイント。まず、ヨハネは「天にしるしをみた」ことは重要だと思います。また、ほかのしるしとのタイミングで考えるなら、七人の天使が鉢を注ぐ前に、獣とその像などはすでに負けていることが示されていることがヒントになります。

 

その後、順番に7つの鉢が注がれていきます。1~5つ目は、様々な災いを起こしますが、10-11節のように、「人々は苦しみのあまり舌をかんだ。そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。」

 

そして関心の6つ目の鉢は下記のようです。

 

黙示録16:12-16 (新改訳)

第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。―― こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた

 

 16節をギリシャ語でみると「καὶ συνήγαγεν αὐτοὺς εἰς τὸν τόπον τὸν καλούμενον Ἑβραϊστὶ Ἁρμαγεδών.」新改訳と、違うことがいくつか指摘できます。

 

原文に主語の言葉は存在しないけれども、「彼らは。。。集めた」は「συνήγαγεν」から訳されています。しかし、この動詞の主語は「第三人称の単数形」ので、「彼らは」ではなく、「彼は」が主語です。カエルのような霊は三つ、王も複数いるので、この聖句の単数形の存在は二つ、直前に語る「イエス」と、鉢を注いだ「天使」です。どちらにしても、アルマゲドンで集めた主語にあたるのは神様の側に立つものと思われます。

 

また、新改訳は「王たちを」と訳していますが、ギリシャ語は「αὐτοὺς」=「彼らを」としか書いていなくて、別の訳だと「彼ら」が指しているのが「カエルのような霊」だったりします。「王たち」のことにしてみると、その「王たち」について見てみましょう。二通りの記述があります。「日の出るほうから来る王たち」「τῶν βασιλέων τῶν ἀπὸ ἀνατολῆς ἡλίου」と「全世界の王たち」「τοὺς βασιλεῖς τῆς οἰκουμένης ὅλης」。この二つとも、ほかの聖書箇所に一度も出てきません。特に「全世界の王たち」に似た意味の言葉は黙示録19章を始め、旧約聖書のLLXでもいつも「οἰκουμένης」ではなく「γῆς」、「地の王たち」のギリシャ語で表記されていますので、ほかの箇所に同一の集められたものが登場する訳ではないのです。

 

そして、カエルのような霊は「戦いに備えて、彼らを集めるため...全世界の王たちのところに出て行く」けれども、この6つ目の鉢の話は、「彼は彼らを集め」てから、戦ったとはかいていません。7つ目の鉢、それにつづくバビロンの裁きなどに、集められた「全世界の王」、もしくは、「カエルのような霊」について、明確なことは一切、書いてありません。

 

結論でまとめると、ギリシャ語の元文で分からないことが分かることよりも多くあります。分かることは「ハルマゲドンに集めた」ことですが、目的語のところで「だれが集まった」、そして集まってからのことも、分かりません。他の聖書箇所とリンクするためを考えるのに、「ハルマゲドン」という地名は他に出てこないし、集まったのが「カエルのような霊」でも、「日の出るほうから来る王たち」でも、「全世界の王たち」でも、三つとも明確に登場する箇所は他にありません。

 

黙示録のギリシャ語にあるのは「ハルマゲドンの戦い」というよりも「ハルマゲドンの大集合」としか言えません。「ハルマゲドンの戦い」は旧約聖書での、ヨシヤなどの戦いです。

 

7、この世の終わりに起こることを順序だてて書いてください。

よくある前千年王国論の順序はこのようです。

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私が思っているものを簡単にまとめます。一般的な後千年王国の順序に近いけど、私は教会の時代に旧約時代もいれる。イエスを信じることだけがすべての時代に唯一の救いの道、永遠に適応すると思います。ヨハネ1章など

 

⓪「始めに」三位一体による天地万物の創造(ヨハネ1、創世記1)、
サタンの墜落?(エゼキエル28:13-19など)

↓ 「現在の時代」

①「艱難」の時、「回復」の時が繰り返すが
・永遠の福音の啓示が旧約の時代から十字架まで、そしてその後も(宗教改革など)、
 よりはっきり見えてきます。それは、後に来る啓示は置き換えるではなく、前の啓示に従って、それを 

明確にし、より現実化する(ヘブル1:1-2、ローマ16:25-26)
・イエスの御国が拡張していき、最終的に勝利が満ちます。(1コリント15:20-26)

※     「現在の時代」の中で救われる人は「第一の復活」を受けます。(エペソ2:5-6)
 現在の時代の命が終えることは「第一の死」です。(黙示録20:5)

↓ 「終わり」 ②、③はほぼ同時進行 

②サタンが解放されて、最後の戦い。イエスの完全な勝利。(黙示録20:7~10)

③再臨と携挙:1テサロニケ4:15-18

↓ 「すべてが新しくなる」(黙示録21:5)

④大きな白い御座の裁き:黙示録20:11-15

・永遠の命(第二の)復活:2コリント5:1-4、1コリント15:40~55

・それとも永遠の死(第二の死)

⑤新しい天と地:ローマ8:18-21、黙示録21章 

 

※また、7問目の回答の表を参考にしてください。

8、どうして「今から後、主を信じる者として死ぬ人は幸い」なのでしょうか。(14:13)

  尾山先生は必ず、天国の素晴らしさ、イエスが一緒におられる天国に行けるからと教えてくださいました。

 

単に「主を信じる者として死ぬ人は幸い」といえると思います。さらに、続きで聖霊がコメントします。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」主を信じて死ぬ人は安らぎと永遠の命を得ます。

なぜここで、「今から後」がついているかということは長年議論されて来ました。どの時にも、「主を信じる者として死ぬ人は幸い」と思いますが、「今から後は」の質問のカギは「」がいつでしょうか。この言葉の前後を調べて、どの節からどの節までが「今」に含まれるかというと14:6~13ではないかと思います。3人の天使が「永遠の福音」を伝える時が「今」と思われます。「永遠の福音」が伝わったのは、創造主の創造の働きから語られているのです。

 

黙示録14:6-7 また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。

 

ローマ1:19-20 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

 

9、「子羊の婚宴」(19:9)とは何ですか。どうしてそこにまねかれている人は幸いなのでしょうか。

尾山先生はすでに、十字架でなさった贖いのわざによって教会はキリストの花嫁になって結婚が成立し、この婚宴はその後に来る披露宴のようなものと教えました。また、この婚宴は聖餐式とも連携していると教えてくださいました。

 

この聖句で「招かれた人」は、教会である嫁とは別にして、旧約聖書の聖徒など、教会に含まれない救われた人と解釈する人がいます。ギリシャ語的にはそのように書かれていないので、そこまで読み込む必要はないかと思います。招かれた人も花嫁もクリスチャンの人達だと思います。

  同じ19章でもう一つの晩餐が書いてあります。17,18節の「神の大宴会」に参加する人は、食べる側ではなく、肉として食べられる側です。その二つのどちらかであれば、小羊の婚宴に招かれた方が幸いだと思います。

 


 

10、この黙示録は、どういう性質の本ですか。だれに対して書かれたものでしょうか。

すべてのイエスを信じる人にとっての良い知らせです。読みながらイエス・キリストをより深く知り、そしてすべてを益にしてくださる希望を持つようになるための書物だと思います。また、やがてくる終わりの時に備えるように注意されます。

 私の解釈では黙示録は、過去主義のように、ただ過去の70年の神殿破壊を通った人だけのための書物ではありません。また、歴史主義のように、ただ宗教改革時代のルーターなどだけのための書物ではありません。また、未来主義のように、ただこれからくる苦難や再臨、千年王国の前後の人だけのための書物ではありません。

 永遠の視点から見たものとして、その全ての世代に適応して、現在の我々にとっても取り巻く霊的な戦いについて述べていると思います。

使徒の手紙研究

使徒の手紙研究

 

①テサロニケ教会への手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

第一テサロニケ

記者:パウロ

執筆年代:51~52年

執筆場所:コリント(アテネと思う学者もいます)

概要:キリストの再臨と復活する信者の神学がしっかりしたものになって、間違った教えについていかないように教えた。(携挙)

 

第二テサロニケ

記者:パウロ

執筆年代:51~52年

執筆場所:コリント

概要:パウロは3つの問題を取りあげます。①外からの迫害 ②キリストの再臨は終わったとの教え ③神に栄光を返さない生き方をしているクリスチャン。(不法の人)

 

②ガラテヤ諸教会への手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

ガラテヤ諸教会

記者:パウロ

執筆年代:49年頃

執筆場所:アンテオケ(コリントやエペソ、マケドニア、の説もあります。)

概要:異邦人のクリスチャンは割礼を受けるべきか?儀式は救いのためには不要です。(肉の働き、御霊の実)

 

③コリント教会への手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

1コリント

記者:パウロ

執筆年代: 55年頃

執筆場所: エペソ

概要:極端に自由すぎる、自己中心的な生き方は間違っていると教えて、教会において聖霊の賜物の正しい役割と価値観。(聖餐式、9つの賜物、愛、預言と異言)

 

2コリント

記者:パウロ

執筆年代: 55-57年頃

執筆場所: マケドニア

概要: パウロとコリントの教会の和解、パウロの使徒としての資格、寛大な献金(パウロの幻、パウロのとげ)

 

④ローマ教会への手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

ローマ

記者:パウロ

執筆年代: 57年頃

執筆場所: コリント

概要: 救いの計画を細かく説明するとともに、質疑応答(”Romans Road”)

 

⑤ピレモンへの手紙、コロサイ教会への手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

ピレモン

記者:パウロ

執筆年代: 60年頃

執筆場所: ローマ

概要: 主人と逃げ出した僕が別々にクリスチャンになった時、和解するように

 

コロサイ

記者:パウロ

執筆年代:60年頃

執筆場所:ローマ

概要:キリストを受けた人のアイデンティティと歩み

 

⑥エペソ教会への手紙、ピリピ教会への手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

エペソ

記者:パウロ

執筆年代: 60年頃

執筆場所:ローマ

概要: 霊的な啓示を受けた人として、この世と違う、霊的な生き方(一致、霊的な防具)

 

ピリピ

記者:パウロ

執筆年代: 61年頃

執筆場所: ローマ

概要:大変な状況の中、キリストの態度を持つ

 


 

⑦テモテへの手紙、テトスへの手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

1テモテ

記者:パウロ

執筆年代: 64年頃

執筆場所: ローマかマケドニア

概要: 教会のリーダーシップ、忠実な奉仕者の生活(監督の条件)

 

2テモテ

記者:パウロ

執筆年代: 66年か67年頃

執筆場所: ローマ

概要: しっかりぶれず、福音を守るように、義を追い求めて、御言葉を説教するように

 

テトス

記者:パウロ

執筆年代: 64年頃

執筆場所: ローマかマケドニア

概要: 教会のリーダーシップ、周りの世の文化を覆す生き方

 

⑧ヘブル人クリスチャンへの手紙、ユダの手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

ヘブル

記者:伝統的にはパウロの手紙が、問われる学者もいます。

執筆年代: 70年より前

執筆場所: イタリア

概要:旧約聖書の知識ある人に対して、イエス・キリストを信じる理由(モーセや天使に勝るイエス、信仰のMVP達)

 

ユダ

記者:ユダ(ヤコブの兄弟)

執筆年代: 65年頃

執筆場所: アンテオケという学者もいますが、不明瞭

概要:旧約聖書を引用して、異端的な教えから守られるように。

 

⑨ヤコブの手紙、ペテロの手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

ヤコブ

記者:ヤコブ

執筆年代: 49年頃

執筆場所: エルサレム

概要:信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだもの(また、祈りの力)

 

1ペテロ

記者:ペテロ

執筆年代: 62-64年頃

執筆場所: ローマ

概要:苦難を通りながら、将来の栄光を待ち望む体制について

 

2ペテロ

記者:ペテロ

執筆年代: 67年頃

執筆場所: ローマ

概要:再臨が近づく中、信仰を持って、聖書に立って、聖く生きるように

 

⑩ヨハネの手紙はだれが、いつ、どこで書きましたか。その内容を短く述べてください。

 

1ヨハネ

記者:ヨハネ

執筆年代: 85年頃

執筆場所: エペソ

概要:神の子供として愛し合って生きる

 

2ヨハネ

記者:ヨハネ

執筆年代: 90年頃

執筆場所: エペソ

概要:ある女性に、キリストが肉体を持っていなかったという異端的な教えを持って、愛の道から外れるような人について注意するように。

 

3ヨハネ

記者:ヨハネ

執筆年代: 90年頃

執筆場所: エペソ

概要:ガイオという信者に、良い働きに続くように。デオテレペスという人はもてなすことを拒むが、信者の兄弟はもてなすべきだと教えます。

 

使徒の働き研究

使徒の働き研究

 

1     ペンテコステまでにどんなことがありましたか。

 

 イエス様が昇天してから、11使徒と120人の信者は集まって祈り、聖霊様がくることを待ち望んでいました。その中で、12人目の使徒の場を任命するためにくじを引いて決めました。

 

2     ペンテコステの意味について述べてください。

 

 ペンテコステはギリシア語で過ぎ越しの祭りから50日後のシャブオットをさしています。出エジプト記34:22から説明されていますが、イスラエルでの麦収穫感謝祭になります。ユダヤ教では伝統的にもう一つの意味を持っていて、モーセが十戒を与えられた日として祝います。モーセは律法が与えられて、山から下ると、3000人が殺されました。(出32:28)その日を祝うペンテコステに聖霊様が下り、聖霊の洗礼を受けて説教した後に、同じ数字の3000人が救われました。(使2:41)まさに、2コリント3:6「(律法の)文字は殺し、御霊は生かすからです。

 

3     初代教会におけるペテロたちのメッセージを一言で言うと、どういうことですか?

 

使徒2:36「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 

4     初代教会において最初に起こった問題はどういうものでしたか。どうして彼らはたちどころ

に殺されてしまったのでしょうか。(使5:1~10)

 

ある夫婦が献金した時、嘘をつけて、突然死んでしまいました。ペテロが説明します。「どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

 

1  聖霊降臨後の新約時代の出来事なのに、「どうして」旧約時代を彷彿とさせるように即物

的な裁きがあったのか

 

尾山先生はこれが経綸の切り換え中に起こった出来事と教えてくださいました。

 

2  「どうして」献金を誤魔化したくらいで殺されてしまったのか

 

  これは献金の問題ではなく、神様を騙すことができると思っていたことが神様の権威に反するものである。ペテロはさらに、「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。」

 

3  「どうして」ペテロに生殺与奪の権があるかのように、彼の一言で二人は死んだのか

 

              ペテロではなく、二人が死んだのは、言えば、内側の霊的な死が外側の体に表らせた神の御業でした。

 

5     次に起こってきた問題の時、人々はどう対処しましたか(使6:1~6)

 

 教会が集まると食事をしていたと書いてあります。その中で食物の配布が不公平に行われているとの声が上がったので、御言葉と祈りの奉仕から、人に仕える奉仕を分けて、担当する人を任命しました。

 

6     初代教会において迫害が起こった時、人々はどうしましたか(使8:1,4)

 

 迫害が来たら、信者は散らばっていきました。しかし、行く所々福音を伝えて、信仰を広めました。

 

7     パウロの回心について述べてください(使9:1~19)

 

 パウロは自分の回心について、こういっています。

ピリピ3:5-11 「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」

 

 

8     パウロたちの伝道旅行はどのようにして始まったのですか(使13:1~3)

 

 アンテオケの教会の中から、聖霊の導きによって、バルナバとサウロは送り出されました。

 

9     第一回伝道旅行ではどこへ行き、そこで何をしましたか(使13:4~14:27)

 

 キプロス島と現代のトルコの中南部を訪問して、そこにあるシナゴーグを中心に福音を伝えました。異邦人の人の足を癒したら、ギリシアの神々と思われたので、異邦人にも福音を説教しました。行く場所すべてに、ユダヤ人の迫害がありました。

 

 

10     どうしてエルサレムで教会指導者会議が開かれたのですか。そこでは、どういうことが確認

されましたか(使15:1~21)

 

 信じたユダヤ人の中で、モーセの律法、特に割礼に関しても、異邦人の信者は従うべきではないかと言っていた人が出てきました。この会議ではこの点を議論した末、この三つに従わせるように確認しました。「①偶像に供えて汚れた物と②不品行と③絞め殺した物と血とを避けるように」。現代のユダヤ教にもこれらを含めた7つの「ノアの律法」が取り上げられます。ノアは全人類の父にもなるので、ノアに与えられた律法は全人類に当てはまるとされています。

 

11     第二回伝道旅行では、幻により神の導きを確信してマケドニヤへ行ったのに、最初の町ピリ

ピでは、ルディヤとその家族、占いの霊につかれた女が救われただけで、どうして投獄される

というひどい目に遭わなければならなかったのでしょうか。(使16:8~34)

 

ピリピで初めてヨーロッパの宣教になりました。この町は、小ローマと言われるほど、帝国の力が集まった町です。ルディアはテアテラ市、パウロが元々行きたがっていた地域の人でした。ピリピに行くことによって、ルディアを通して、その地域の福音のカギとなる人と主は出合わせましただけではありません。ある女性が占いができなくなり、女の主人の声が上がり捕まえられた。その多くの苦しみを経験したにもかかわらず福音が進んでいたので、聖霊の導きを感じます。

 

12     アテネのアレオバゴスの丘でパウロがした演説はどういうものでしたか。(使17:22~31)

人々が彼の演説の途中で帰ってしまったのはなぜですか(使17:32)

 

すべてを作っておられた主が私たちをおつくりになって、人間の手によって作られるものではないと教えていました。また、パウロが復活のことを話すと帰る人がいました。ギリシャ神話のダイアナ像など多くの偶像を礼拝していた人達の仕事も、この教えによってなくなるとも考えられるし、復活の話がありえなかったでしょう。

 

13    エペソには、聖霊(*)について知らない信者がいたようですが、どうしてなのですか(使19:1

~6)

 

アポロがキリストについては知っていたが、聖霊の働きについては知らなかった。おそらく、イエスの十字架と復活後けれども、ペンテコステの日より前にエルサレムから出たキリストについての教えを受けていました。聖霊の教えがなかったので、聖霊の実を結んでいなかったとみて、パウロが聞いたと思われます。

 

14    パウロがエペソ教会の長老たちをミレトに招いて語った説教の内容はどういうものでしたか

(使20:18~35)

 

もうエペソに戻ることはないと分かっていたそうですので、真実な信仰を守るように、信じている人達の信仰を守るように教えました。

 

15    パウロはなぜクリスチャンを迫害したでしょうか(使22:3~4、26:9~11)

 

それが神様の前で受け入れて正しいことと教えられて思っていたと思われます。

 

16    パウロはどうしてローマ皇帝に上訴したのでしょうか(使25:11)

 

自分を守るという意味よりも、ほかの信者も迫害から守られるように願っていたと思われます。

 

17    パウロはローマへ船旅において、船長や航海士以上に確信をもって人々に語っています。

どうしてなのでしょうか。(使27:9~10、21~26)

 

神様がパウロに、パウロがローマ皇帝にあって、一緒にいる人達が救われることを教えました。

 

18    パウロはマルタ島で柴から出て来たまむしに噛まれながらも死にませんでした。どうしてだ

と思いますか(参考 マルコ16:18)

 

 イエス様がそう預言しました。マルコ16:18「蛇をつかむことができ、たとえ毒を飲んでも決して害をうけない。

 

19    ローマに着いたパウロは、そこで何をしましたか(使28:30~31)

 

パウロは御国を告げ知らせ、大胆にイエスの福音を教えました。

 

20    使徒の働きを書いたルカは、どこからその資料を得たのだと思いますか。

 

パウロとパウロを教えてバルナバ。また、自分も一緒にみた内容もありました。

福音書研究

福音書研究

 

1、なぜ 新約聖書 頭の四冊は「福音書」と言って、「イエス伝」とか「キ

リスト伝」と言わないですか。

 

イエスの生涯は紹介されますが、この四つの書物の中心的なメッセージはただ歴史と伝記を伝えるのではなく、福音であるから。

 

2、主イエスのご降誕そのもの出来事は、どの福音書のどこに記されてい

ますか。

 

マタイ1:18~2章

ルカ1章~2章

マルコとヨハネにはこの奇跡は紹介されていません。

 

3、四福音書のどれにも記されている出来事は、何と何と何ですか。

 

十字架にて死なれたことと復活されたことです。

 

4、受難週の出来事について最も多くのページを費やして記しているのは、どの福音書で、全体のどのくらいを費やしていますか。

 

ヨハネの福音書は約半分、受難週について書かれています。

 

5、主イエスが公の働きに入れられる時、経験された二つの出来事は何と何

であり、それが意味していることは何ですか。

 

洗礼と試みです。

洗礼について、イエス自身に罪がなかったが、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」という発言によりイエスがその後救われる人のために、父なる神の御心に従い受けました。ヘブル2:17 「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」

 そして洗礼を受けた後、ヨム・キプルのアザゼルのためのヤギ(レビ16:10)のように荒野に行って、試みを受けました。その試みはイエスに対して、十字架ぬきの救い主の誘惑を表しています。

 

6、主イエスの公の働きの最初のことに付いて記している福音書はどの福

音書で、それはどのような出来事ですか。

 

ヨハネの福音書です。その最初の4章までは弟子を集めて、水を葡萄酒に変えて、律法学者を批判したり教えたりして、そのほかに預言と奇跡をなされました。

 

7、主イエスがよく祈っておられたことに付いて記しているのは、どの福音

書で、具体的にどこで祈っておられることを記していますか。

 

ルカ5:16 5:16 しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。

例えば、具体的な例を挙げると、山に行ったりしました。

ルカ6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 

8、主イエスが十字架上で発せられた七つの御言葉に付いて記し、その中で

最も重要な事を表している御言葉はどれですか。どうして重要なので

すか。

 

1. 赦しの言葉

ルカ23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

2. 救いの言葉

ルカ 23:43「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

3. 絆の言葉

ヨハネ19:26-27「母上、ここにあなたの子が」、「ここにあなたの母上が」

4. 人類の孤独感の同感の言葉

マタイ27:46「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

5. 人類の苦痛の同感の言葉

ヨハネ 19:28「わたしは渇く。」

6. 贖いの勝利の言葉

ヨハネ19:30 「完了した。」

7. 神の主権を信頼する言葉

ルカ23:46「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

 

この中でもっとも重要なことを表している箇所は私に決めることができません。どれもが救いに必要不可欠な要素と思います。一番必要性が問われると思われる「絆の言葉」でも、私たちの信仰のあゆみと救いは決して一人で受けて、自分一人で体験していくものではないことを表しています。一人中心の信仰を強調した福音の教えは、救われていると思った人においてプライドとなって、多くの人を躓かせることになっています。

 

9、主イエスは何人かの人を生き返らせておやりになりました。それは、誰

ですか。

 

① ヤイロの娘(マルコ5:22~43)

② ナインという町のやもめの息子(ルカ7:11~15)

③ ラザロ(ヨハネ11:1~44)

 

10、生き返りと復活とは同じですか。それとも違いますか。違うとしたら、

どのように違いますか。生き返らせたことの意味は何ですか。

 

三省堂の辞典で日本語の意味を調べました。

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 日本語において、「復活」の最初の定義として出てくることは「生き返る」だそうですので、日本語の意味においては同じと思われます。

ギリシャ語では主に2つの単語があります。「ἀνάστασις」(ἀνά=再び+ἵστημι=立つ)と「ἐγείρω」(目覚める)になります。どちらの言葉も、①イエス様についても、②未来の信者の復活についても、また③イエス様が生きている間に生き返った人についても使われていますので、大きな違いはないかと思われますが、ニュアンスの響きは(日本語の「死ぬ」と「亡くなる」のように)後方はやさしい言い方に聞こえると思います。

 

旧約特論

旧約特論

 

1.箴言とはどういう書物ですか。

 

箴言は知恵の書物の一つとして存在しています。ここで述べられているのが単なる哲学や道徳ではなく、神の知恵です。そこには知恵ある者と愚かな者の比較を通して、ルールや戒めではなく、恵みによって与えられた賢い生き方の教えです。主を恐れること、すなわち神の主権を認めるところから始め、いかにも主の喜ばれる生き方を分かりやすく、身近な事例を通して説明しています。今日の人にも適用する古代な言葉として、人間の根本的な性質を見極めている事実から、聖霊の霊感を感じます。

 

2.箴言の中から一つの聖句を取り上げ、その御言葉が自分の人生に与えた力について話してください。

 

箴言22:29 じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。

 

 神様から与えられた一つとして、言葉の通りの「異言を解き明かす」通訳の賜物をいただいております。使徒の働き2章でそれぞれの人が自分の分かる言葉で神の御業が語られたことに感動しイエスを信じたなどの出来事を信じて日本人に分かる日本語で神の御業を伝えたいという気持ちで二十歳から日本語を勉強し始めて、聖霊の助けによって26歳からその言語能力が一般市場に認められて通訳の仕事を始めました。その後も、神様しか開くことのできない機会が与えられました。ある40年間の歴史と実績を持つ会社を引き継ぐことになりました。最初はその道でも進んで良いかどうかの迷いがありましたが、この箴言で、神様が与えられた通訳の賜物によって、影響力のある人のつながりができるようにすると語られて、会社を引き継ぎました。現在、日本全国の何万人の中小企業の代表者が属する集いの一員となって、発表したりする機会が与えられています。

 

3.出エジプト記と創世記の関係は、どのようなものですか。

 

モーセの五書の一つ目と二つ目として、創世記に始まった話の続きが出エジプト記に示されています。創世記の「入る」や「陥る」ものと反対に、出エジプト記は「出る」や「立ち直る」ことが多くあります。それは場所「エジプト」に入る、そして出る、のみならず、罪に陥るに対して贖われて立ち直ることもあります。反対に映す鏡のように創世記のヨセフは一番無力の兄弟が遠い国で奴隷として生活し、イスラエルの民を豊かな国に入れて救うことに対し、モーセは王子として育って、遠い国で族長の義理息子として生活し、イスラエルの民を荒野に出して救うという話になっています。

 

4.出エジプト記には二つの山があります(重要な事柄)、それは何と何で、どういう意味で重要と言えますか。

 

 使命を受けたホレブ山と、律法が与えられたシナイ山は同じ、「神の山」でした。ホレブ山でモーセが神の呼ぶ声に聴き従い、シナイ山に戻ると生き方を導いてくださる「律法」が与えられたのは、メソディスト派が語る「二つ目の恵みの働き」やペンテコステ派の「聖霊の洗礼」のように、クリスチャンが神様に応答し救いを受ける体験と、聖い生き方に導いて下さる聖霊で満ちる体験のようなものでした。興味深いことに、その二つの山は同じ場所とされていると同様に、クリスチャンのこの二つの体験は同じカルバリーの丘、ゴルゴタの丘、その十字架にて、イエスと出会って受けるものです。

 

5.出エジプト記に記されていることで、あなたの人生にインパクトを与えた御言葉、もしくは出来事があれば、それを記し、その間のことについて話してください。

 

 宣教師として日本に来た私にとって、何度も、何度も戻るところは、出エジプト記の3章の燃えている柴から名前を呼んで語りかけている神の御声に励まされてきました。その力強い印象的なイメージ、燃え尽きない炎から、辞めようと思った時に希望が湧きあがります。モーセと同様に言い訳をしたり、自分には課題があるのにと言ったりした末に、それでも私を用いてくださる恵み、またモーセのように最終的に正直にただやりたくない、どうか別の人を送ってと言い張っていた自分に、一人ではないようにチームで使命を成し遂げられるようにしてくださる神の恵みに、ただただ驚きます。その燃え尽きをしない柴のイメージは、私の心と魂に焼き付いています。

 

6.箴言、出エジプト記以外で、旧約聖書中、あなたの人生にインパクトを与えた御言葉、もしくは出来事があれば、それを記し、その間の事について話してください。

 

哀歌 3:55-58

「主よ。私は深い穴から御名を呼びました。

あなたは私の声を聞かれました。救いを求める私の叫びに耳を閉じないでください。

私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな。』と仰せられました。

主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました。

 

 私の次女は遺伝的な病気があります。その病気は今の医療技術で治すことができない、日本全国に約15人の患者しかいない、非常に重い慢性的なものです。レマ(Rhema)ちゃんが4歳ぐらいの時に診断された時、寿命が長くて20歳までと病院の先生に言われました。それまでに、生きている間ずっと、肺の中にタンが発生し続けて、毎日1カップぐらい咳して吐き出しながら、肺炎と体中の熱、酸素が足りなくて頭痛と疲れなど、辛い辛い毎日です。一週間ごと入院退院のサイクルに入り、妻が付き添いで病院に、私と元気な長女が家に、家庭と信仰を砕く病気と闇の気持ちとの戦いが一週間から何週間、一か月から何か月、一年間から何年間に伸びていきました。その中で、色々な御言葉が励ましにもなったが、特にこの哀歌の祈りがその一つでした。すべてを見てご存知の神様から、「恐れるな」と仰せられる、その言葉から、今日だけ、先が見えなくても、後一歩でいいから、進む勇気が与えられました。魂の訴えを聞いてくださって、それを弁護し、贖ってくださる主がいるので、この戦いをゆだねることができるようになりました。

現在は、入院退院のサイクルの長い長い8年間から解放されています。まだ完全には治っていません。主の恵みによって症状が少し楽になっています。完全に癒すことができる主に頼り続けています。

旧約釈義

旧約釈義

 

次の聖書箇所からそれぞれ一つを選び、その釈義をしてください。

 

ヨナ書

 

1.背景

 ヨナ書は他の小預言者の書と少し違う点がいくつか挙げられます。まず、中心的な内容は、神様が預言者に与えたメッセージではなく、その与えられた預言者の応答です。また、ユダヤ教の解説を読むと、皮肉的な要素と驚きが多くて、コメディとして知られています。そして、旧約聖書の中ででも新約聖書のような神学が教えられています。罪を告白し悔い改めて、信仰による救い、恵みの立場から書かれているだけではなく、それが異邦人にも述べられるという驚きのメッセージが入っています。紀元前700年前後に書かれたとされていて、今でもヨム・キプルの午後にイスラエルの子供が読んで神様のあわれみを思い起こす伝統が続いています。

 同じ名前の「アミッタイの子ヨナ」は、ヤラボアム王(二世)の時代に預言をしました。(参照 2列王記14:25)

 

2.コメディ(皮肉や驚きの)要素

 

 コメディを分析すると、笑いが取れる要素はいくつか取り挙げられます。この釈義でその内の二つを見ます。①皮肉:期待や常識を覆す状況や行動、②驚き:話を知らない人の初耳の瞬間、期待されなかった出来事の面白さ。残念なことに、面白さを説明すると面白くなくなることはありますので、コメディを分析しても、笑えなくなる可能性があります。

 

 1:1主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った

 

 アミッタイの子(直訳:真実の子)として紹介されています。不可謬な神のみ言葉の中で、信じがたい奇跡的なところのある話(魚の中で三日間、本当に生きれるかどうか、など)で、「真実の子ヨナ」と呼ばれるはこの観点から少し皮肉的かもしれません。

 

1:3しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。

 

 ニネベは現代のイラクの北部のモースル市にあった、アッシリア帝国の首都でした。今でもその史跡はモースル市に残っています。タルシシはニネベとは反対方向の当時の知られた世の果てのスペインにあったとされています。全体の話が分かる人にとっても、神の計画の中にいる人が真反対に逃げようとしても結局、神様の計画していたことに戻るところも皮肉的であります。

 

 1:5それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。

 

 慌てている水夫と比較して、内面的、外面的な嵐に攻め詰まったヨナが熟睡できる驚きは面白いです。

 

 1:6そこで船長は来て、彼に言った、「あなたはどうして眠っているのか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、われわれを顧みて、助けてくださるだろう」。

 

 水夫は不敬虔で罪深い人としたイメージの強いユダヤ人にとって、船長が預言者に祈るようにいうことは皮肉的です。

 

  1:9ヨナは彼らに言った、「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。

 

 この部分に3回(5節、10節、16節)水夫が恐れて、神に心を向けて、助けを求めます。しかし、ヨナは主を恐れるといいながらも、逃げようとしているし、祈らずに熟睡していることが皮肉的です。どちらが本当に神様を恐れているでしょうか。

 

 

1:10そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。

 

 「一体なにを主に対してやったのか?」と聞くけど、聞く前に知っていたと書いてあります。離れてのがれようとしかしていないことを知っている、読者と水夫が一緒に思うところに驚きと皮肉があります。

 

1:14そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。 1:15そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。 1:16そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。

 

 預言者はニネベにいる人が全部滅ぼされてほしいのに、一つの命、自分たちに災害を持ち込んだ人でさえ、その命の尊さが分かる水夫が皮肉的と思います。また、預言者が神のメッセージを宣言しない時でも、託された使命から逃げている時でも、そこで信じなかった人が神様を信じるようになることも皮肉的だと思います。

 

1:17主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。... 2:10主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。... 3:1 時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、3:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。3:3 そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。

 

 

 いきなり大いなる魚に飲まれるヨナについて、世界中のこどもが驚いて面白さを覚えています。また、神の言葉を聞いたヨナが1:3で「すぐに」(立って)にげてしまったのに比べて、2:10にあるように主が命じてすぐに魚が従ったことも皮肉的な比較です。また、「再び」(3:1)ヨナに語りかけられるヨナが「すぐに」(立って; 3:3)行くところの「すぐに」は非常に皮肉的な表現だと思います。

 

3:6このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。 3:7また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。 3:8人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。 3:9あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。

 

 王は動物まで悔い改めさせることを命令する驚きがあります。3:9の言葉は1:6の船長の表現に似ていることも驚きの面白さの一つと思います。

 

4:1ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、 4:2主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。 4:3それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。 4:4主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。4:5そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。

 

 預言者が、相手の応答に喜ぶところはずのに「激しく怒る」こと、また「あなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていた」ことが嫌になるのも驚きで皮肉的だと思います。怒りのあまり、「死ぬ方がまし」だとか、町が滅ぼされるのを期待して待ってみる行動など、また驚きと皮肉の要素は充分あると思います。

また、この4章全体は本当の善悪を考えさせる聖句ですが、ヘブライ語で反対語の良し(good「טוֹב」)と悪し(evil「רוע」)を比較し、そこで驚きを見せます。1節では、たくさんの人が救われたことに対して「非常に不快(רוע)」と思われたに対して、4節で神様が一人が怒りで燃えることは「よい(טוֹב)ことであろうか」と問われます。人間の思う善悪と神の思う善悪のギャップに驚きます。

 

4:6時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。 4:7ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。 4:8やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。 4:9しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。

 

 ヨナの思う「悪」がまた紹介されます。神は「ヨナを暑さの苦痛(רוע)から救うために、とうごまを備えた」と書いてあります。植物に「非常に喜ぶ」が、多くの人間の救いに喜ばない、むしろ死ぬほど「非常に不快と」し怒る預言者のみならず、自分を含めた人類がそうであると納得する思いに対して、驚きと皮肉を超えて悲しくなってきます。

 

4:10主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。 4:11ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

 

 王様が動物を悔い改めさせたことに、ここで神様が「家畜」を含めて惜しむことを示すことが皮肉だと思います。このコメディ全体のオチかのように、その言葉でスパッとヨナ書が閉幕します。

 

3.キリスト教の神学的な内容

 

ア)キリストの型

 

 1コリント3:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています...

 

 私がクリスチャンになってすぐに、恥ずかしいくらい聖書を知っているかのような根拠のない自信を持っていました。ある友達の教会で聖書勉強会を開いた時に、その牧師に言いました。「どこで聞いたか忘れたけど、ある人がイエスがヨナみたいだと言っていた。私はそう思いません。ヨナは神様の計画から逃げていたから、まったく似ていないと思います。」そこで、忍耐と愛をもって、イエスがヨナの印を見せるとおっしゃったのはイエス様自身であると教えられました。そのように、100%詳細までマッチしないかもしれませんが、イエスの生涯を指していると思われる要素をいくつか紹介します。

 

 「ヨナの印」

 マタイ12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。12:39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。12:40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。12:41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

 

 「嵐の中で寝ている姿」

 ヨナ1:4 時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。1:5 それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。

 マタイ8:24 すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。

 

 「くじ引き」

 ヨナ1:7 やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。

 マタイ27:35 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、

 

 「嵐を静める奇跡」

 ヨナ1:15 こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。

 マタイ8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

 

イ)救済論と神の主権、「思い返す神」の疑問?

 

 神様の計画から逃げ出せなかったヨナは、カルヴィン主義の「不可抵抗的恩恵」や「聖徒の堅忍」を表す事例として挙げられることはあります。しかしながら、反対にヨナ書の初めまで自国の預言者として知られても、閉幕の4章の時点では信仰から遠く離れた状態にいることはアルミニウス主義が主張する「相対的保証」、「可抵抗的恩恵」と挙げられます。ヨナ書はカルヴィン主義かアルミニウス主義かのどちらの救済論に対しても、決定的な証拠になりません。

 

3:4ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。

 

 「神の主権」を問う人は、ニネベが滅ぼされなかったところで挙げる疑問は「この預言は実現されたでしょうか?」「ヨナが与えたメッセージは嘘だったでしょうか?」。。。「滅びる」という言葉のヘブライ語は「הָפַך」で、「反対方向に向く」ことが元の意味になります。ニネベは滅びなかったが、repent(反対方向に向く=悔い改める)しましたので、この預言は嘘ではありませんでした。

 

3:10神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

 

 すべてのことを知って、すべてのことを永遠からみて計画を立てている神様は「思い返す」ことができるでしょうか?「生きている神」であることから、この点は矛盾にならないと思います。神様の永遠の視点から、人間の時間感覚とは違う意味の「思い返す」になるではないかと思います。神様は永遠の視点を持っていて、祈りに答えてくださることを、祈るよりも前から決めることができます。

預言研究

預言研究

 

小預言書のうちどれか一書を選んで説教演習メッセージを作ってください。その書全体についても、一部についてでもいいです。長さは自由です。

 

(「。。。」のところは実際に人の前で話す時、聖霊の導きによっては証をシェアしたり、説明をさらに加えます。)

 

タイトル:神様は国々、個々の希望 (ミカ書より)

 

今日はミカ書を見ていきたいです。ミカを紹介すると、まず名前は「神のようなものは誰でしょう?」という意味です。その偉大さを称えるために呼ばれた預言者です。。。

 

ミカが生きていたのは約2700年前の中東ですが、ある意味、現在の日本に住む私たちとはそこまで離れていないことも言えます。その時代の人の多くは、お金、名誉と権力の誘惑を追い求めて他人を苦しませていた。。。宗教や正義の形だけ欲しくて、真理を拒む時代でした。。。

 

ミカ書:

6:10 まだ、悪者の家には、不正の財宝と、のろわれた枡目不足の枡があるではないか。

6:11 不正なはかりと、欺きの重り石の袋を使っている者を罪なしとすることがわたしにできようか。

6:12 富む者たちは暴虐に満ち、住民は偽りを言う。彼らの口の中の舌は欺く。

...

7:2 敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。

7:3 彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている。

7:4 彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。

 

1列王記:

12:28 そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」

12:29 それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。

12:30 このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。

 

現在の日本はどうですか?この国の文化は「不正の財宝」を得ようとして、「偽りを言う」住民になっていませんか?この世の調子と合わせていく時代。堕落した結果に走り続けています。

 

個人的にはどうでしょうか?私たちの心は神の住まい(「ベテル」。。。)のはずですが、そこに何の「金の子牛」がいるでしょう?真理のところに嘘が存在しているでしょうか?恥?怒り?足りない?届けない?汚い?。。。

 

これだけがミカのメッセージであったら、大変なことになります。私もこの落とし穴に陥ってしまいます。。。ミカに3つの希望の言葉が与えられて、それが、今日の私たちのためになる言葉だと思いますので、一緒に学んでいきたいと思います。

 

1.「倒されても立ち上がる!」

 

ミカ書

7:7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。

7:8 私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。

7:9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

 

7、8節にはすごく励まされます。口に出して言いたくなります。「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がりますから!」。。。

 

しかし、9節も見つめるべきです。後半は同じように、励まされる。「主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」でも、この前にまず、「私が主に罪を犯したから、激しい怒りを身に受けている。」自分の罪を認めて初めてこの結果になります。

 

ナチスに殺害された宣教師、ディートリヒ・ボンヘッファーはその時にあった妥協するクリスチャンに対して、強く注意しました。クリスチャンと言いながら、本当の弟子にならず、弱い立場の人を助けなくていいと思った人について、「安価な恵み」(Cheap Grace)の教えを指摘した。

 

ディートリヒ・ボンヘッファー(モア訳で失礼します)

「安価な恵みとは、悔い改めの不要な赦しの説教、教会の訓練なしの洗礼、告白のない聖餐式、個人の告白なしの罪障消滅だ。安価な恵みは弟子として訓練されない恵み、十字架のない恵み、生きておられて、ともにおられるイエスキリストなしの恵みだ。。。『クリスチャンが世の富をもって安心すればよいのだ。恵みを得たことで平安と安らぎを持つべきです。なぜなら、恵みだけがすべて成し遂げて下さったからです。キリストについて行かず、恵みの中で得たものを楽しめばいいのです。』これは安価の恵みです。。。すべてをイエスのために捨てたといえる人のみが、恵みだけによって正義とされたことを言えます。これこそ高価なめぐみです。」

 

イエスが偉大な代価を支払ってくださいました。私たちの身代わりで裁きを受けました。でも、告白する時忠実に許してくださいます。

 

1ヨハネ

1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

イエスが光です。罪を暗い中に隠そうとすれば、いつまでたっても自由になれません。イエスの光の中に歩むなら、イエスは真理で正しい。。。だから許せるのです。私の忍耐が足りない時に許してくださいます。愛が足りないとき、許してくださいます。栄光を返すように生きていない時でも、許してくださいます。でも、その光に生きることによって、恵みによって変えられます。払ってくださった代価に感動して、圧倒されるので、前の生き方に戻れなくなります。

 

2.神様に近づける方法

 

ミカ書

6:6 私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。

6:7 主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

6:9 聞け。主が町に向かって叫ばれる。――御名を恐れることがすぐれた知性だ。――聞け。部族、町を治める者。

 

日本人はルールが好きです。宗教も好きです。従いやすいし、形が整っているのが気持ちいいと思います。しかし、神様が欲しいのは、形ではないのです。心です。人への本当の思いやりです。便利な時だけではなく、神様は真心をもって人を愛する人が好きです。。。

 

また、へりくだって、主の声を聞く人です。。。

 

ヒズコールでこの6つの習慣をイエスの弟子として、お勧めしています。これはルールではなく、形でもないものです。この6つの習慣を心から行うことによって、神に喜ばれる弟子になります。

 

① 礼拝。。。 ② 祈り。。。 ③ み言葉を読んでジャーナル。。。 

④ 献金。。。 ⑤ 心を聖く保つ。。。 ⑥ 受けた恵みを共有する。。。

 

ヤコブ

1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

1:26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

1:27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

 

不思議ですが、人を助ける時、自分の問題が小さく見えてきます。主の恵みが臨みます。社会的な立場の弱い人を手伝いたい人がいたら、教会として取り組んでいることと、自分も参加できるように説明します。。。

 

3.打ち勝つ神の恵み

 

今日、話した内容は知るだけでは不十分です。今は情報化社会と言われている時代になっています。残念なことに、情報だけ多くて、「知恵」が足りていないのです。情報ばっかり多くて、「啓示」が少ない時代です。情報が溢れて溢れて、「集中力」と「忍耐」が妨害されています。情報がどれだけあったって、その「意味」がほとんどありません。ただの情報だけでは、「真理」ではありません。。。

 

真理とは、神の恵みは偉大で、私たちの信じた偽り(足りない、できない、相応しくない。。。)を取り除きます。

 

ミカ書

7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

7:19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

7:20 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。

 

自分の力で、変わることができないことは真理です。救われた時に聖霊を受け入れ、その聖霊様の力で神の道に従います。今日、そのあわれみの中に入りましょう。罪を告白し、イエスに弁護していただきましょう。聖霊を受けて、本当の愛に歩んで、神様に近づいていきましょう。今日、倒されていると思ったら、恥は取り除かれているのですから、立ち上がりましょう。。。

詩書研究

詩書研究

 

1 詩篇第一篇を解説し、日々の信仰生活に関して新しく教えられたことを記述してください。

 

1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

「幸いなことよ…その人」(אַ֥שְֽׁרֵי־הָאִ֗ישׁ אֲשֶׁ֤ר) 「幸い」の言葉に「まっすぐに」「導かれ」「前進させらる」という意味が含まれています。それと比べて、「悪者のはかりごと」、「罪人の道」、「あざける者の座」は曲がっていて、神様から遠ざかるものです。

「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった」ここの「悪者」は法律的な犯罪者で、「罪人」は道徳的な罪悪感を覚える人です。人間的に感がると重いものから軽いものの順で出てくるのは逆にあざける者の側に座るだけでも、それは悪者のはかりごとまでに展開することを示しています。例えば、犯罪を起こすような計画で走らなくても、また道徳的な道に歩んでいなくても、あざける人の「座」(ヒ:立場・住まい)に居ることはないか問われます。私は人に対してイエス様のように、いつも謙遜な心で尊敬し、行動もって愛と感謝を示し、可能性を信じているでしょうか。

1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ

神様のみ言葉の習慣「昼も夜も…口ずさむ」前に、まず主のおしえを「喜び」としているでしょうか。この生活のリズムは義務から始まるものであれば、何の益にもなりません。

1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

「水路のそばに植わった木」…比較 (エレミヤ17:8、エゼキエル47:12、黙示録22:2) 天国を描いています。

絶えず人に癒しとリフレッシュを与える存在になれますように祈ります。そのために深く、生きている水の川に届くまで根を下ろすようにゆっくり献身的に神様と時間を過ごし求め続けます。


 

 

1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。

1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。

1:6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

正しい人の永遠に残る道を比較対象として、悪者の滅びる行方に対して注意されています。これは吹き飛ばせれる枯葉のように消え去っていくイメージで表しています。

 

 

2 詩篇第三篇を解説し、祈りについて新しく教えられたことを記述してください。

 

【ダビデの詩篇。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。】

 関係の近い人から裏切られた痛みも、主の前にもっていきます。

3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。

3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ

 また、否定されていると感じる時、それを神様にもっていくべきです。

3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。

3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ

 すると、自分は自分で守る必要がありません。主は聞いてくださっています。状況に囲まれ責められているように見えても、主は私を囲み守ってくださいます。

3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。

 不安や心配で眠れない夜に覚えるべきことは、イエス様に完全な平安があります。

3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない

(参照3~4節のコメント)

3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。

主は、敵の歯、私を傷つけるものは打ち砕けれます。

3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ

 この詩篇に三回も「救い」、ヘブル語では「ישוע」、すなわちイエス様の名前があります。ヘブル語で救いを求める時、必ずイエス様の名前の語源を口にします。私も、自分の力に頼らないでこのように、いつも、すべての状況において、イエス様の救いと助けを求める習慣を身に着けれるように祈ります。

 

聖書神学

聖書神学

1、旧約聖書で使われている「シェオール」の用法について説明してください。

 

シェオール(ギリシャ語:ハデス)は訳し方は様々(墓、穴など)ですが、良い人も悪い人も、皆が死んだら行く場所とされている中間的な状態ですが、最終の状態ではありません。この第一の死の場所から復活されて裁かれ、イエスを信じる人が新しい天地で永遠の命に生きて、信じないものにはゲヘナにて第二の死を受け、永遠に滅びます。

 

2、セカンドチャンスを主張する人々の論拠として、聖句を8つ提出していますが、(ルツ2:20、エレミヤ18:8、ヨハネ5:25、28、1ペテロ3:18-4:16、ピリピ2:10-11、黙示録5:13、黙示録20:11-15、ローマ14:9)、これらは本当にセカンドチャンスを裏付けるものでしょうか。裏付けのないものであるなら、そのことを論証してください。

 

ルツ2:20 ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」

日本語の訳(新改訳、新共同訳、口語訳)は上記のように、主が死んだものに恵みを与えると書かれていますが、ヘブル語だと生きている人と死んでいる人に対してよくするが「主」か「その方(ボアズ)」かがあいまいで、多くの英語訳は「生きている人に対しても、死んでいる人に対しても良くするボアズを主が祝福するように」というように訳しています。また、「御恵み」は、具体的なセカンドチャンスを示すとは言いにくいと思います。

 

エレミヤ 18:8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

この悔い改めは死んでからの悔い改めをさしていると思いません。

 

ヨハネ5:25~29 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

だれも第一の死、そして第一の復活を経験します。ここで取り上げられているのがその第一の復活です。しかし、その時に裁かれて、イエスを信じないものにはセカンドチャンスではなく、セカンドデス(第二の死)を受けます。(黙示録20:11~15)

 

1ペテロ3:18-4:16 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。

「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」とありますが、この「捕らわれの霊」はシェオールやハデスにいたと書いていなくて、生きている人間が罪に捕らわれていることを指しているとも言えます。

また「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」こちらについても、福音が述べ伝えられたタイミングは死んでからに限らず、今は死んでいるが生きていた間に述べ伝えられたというようにも読めます。

この聖句は明確な証拠になりません。

 

ピリピ2:10-11 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

イエスキリストを主と告白するだけで救われません。汚れた霊も神の子であることを宣言しました。主として受け入れる必要があります。主と言いながら従わないものは永遠に滅びることになります。

 

黙示録5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

ピリピに対する、上記の説明と同じ類のものです。賛美するから救われるものではありません。また「地の下」は被造物の一部をさしていると思われて、セカンドチャンスとは関係がありません。

 

黙示録20:11-15 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

第一の復活の時点では第二の死に対する判決がすでに決まっていて、いのちの書、もしくは別の書物に記載されています。

 

ローマ14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

キリストがすべての主権をもっていることは間違いありません。その主権の下にいることにかかわらず反逆する人、主権の下にいるけどその事実を受け入れない人は救われません。

 

 

3、ラザロと金持ちのたとえ話は、セカンドチャンスを主張する人々にとって、有利ですか、それとも不利ですか。

 

不利と思います。実話であることが明確でもないし、「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」と書いてあるからです。中間的な状態のハデスにいるとその苦しみから、慰めに移ることがないということです。

 

4、あなたはセカンドチャンスを信じますか。信じるならその論拠を、信じないのなら、その論拠を示してください。

 

死んだ後のセカンドチャンスを信じません。

聖書が第一の死の後、第一の復活までに、中間的なシェオールで救いを受けるチャンスがあることを示していないと思います。また第一の復活の時点では、すでにいのちの書か、その別の書物かに書かれているから、第一復活から裁かれるまでには救いのチャンスがないと思います。

セカンドチャンスをはっきりと伝える聖書箇所が存在しないと思います。

 

03: 聖書緒論

聖書緒論

 

1、 聖書の霊感とは何か。

 

  聖書は預言的に聖霊の啓示によって書かれていて、まさに神の言葉であることを表しています。

 

2、 聖書の霊感について最も重要であると思われる聖書の箇所を三つ挙げて、説明せよ。

 

2ペテロ1:21なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

2テモテ3:16-17聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

マタイ5:17-18 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます

 

思いついたもの、考え出したものではなく、神様が書き記す人を導き、啓示を与えました。それを受けた人は誤りなく、書き記しました。そのゆえ、無謬で権威あるものと言えます。

 

3、 誤った霊感説を挙げ、どこが誤っているか説明せよ。

 

人間が書きながら、聖霊は神学的にだけ誤らないように守ったという説があります。これは一つの部分的な霊感説とも言えます。しかし、これでしたら、ある箇所は人間の言葉で、権威ある神様の言葉ではなく、参考程度にしてもいいということになります。

 

4、 へプル語聖書(旧約聖書)の三大区分、及び小区分とその冊数を記せ。

 

律法(モーセ5書)

預言者(ヨシュア、士師記、サムエル、列王記、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、12小預言者)

諸書(詩(詩篇、箴言、ヨブ)、5巻物(雅歌、ルツ、哀歌、伝道の書、エステル)その他(ダニエル、エズラ、ネヘミヤ、歴代誌))

 

5、 新約聖書が正典として認められた理由は何か。

 

使徒たちの神的な権威と聖霊によって語られたことが認められました。

 

6、 外典が正典から除外される理由は何か。

 

聖人の名乗りながらの偽作で、宗教的な価値がなく、正統的キリスト教を惑わす内容が含まれています。

 

7、 新約聖書にコイネーのギリシャ語が使われた理由は何か。

 

一般的な言語だっただけではなく、ギリシャ語の特徴が神学的に聖書の意味を表すのに適切であります。

 

8、 へプル語旧約聖書全巻を含む最古の写本の年代は何世紀か。

 

レニングラード写本は1008年に作成されていたとされています。

 

9、 主な古代訳について説明せよ。

 

旧約聖書においては、ギリシャ語の七十人訳、アラム語のタルグム、スリヤ語のペシタ、ラテン語のヴルガータ。新約聖書においては、スリヤ語のペシタ、ラテン語のヴルガータ、エジプト語のコプト訳。これらの古代訳は2千年後という文化的、時期的な距離より著者に近いので、元文の解釈に役立ちます。

 

10主な近代訳について説明せよ。

 

 英語圏ではジェームス王訳(KJV・欽定訳)英語圏において何百年にわたって愛用されたバージョンです。ある教会では1900年代の半ばまででも、KJVとその改訂版以外の訳を受け入れないほどです。しかし、あまりにも言葉のニュアンスが変わって来た中でNIVが普及するとともに、ほかの訳の数が爆発的に増えている現状です。

日本においては今でも使われることがある訳は口語訳から始め、その後にできた新改訳と新共同訳は広く使われています。現在は多種多様な翻訳方針の影響もあり、パラフレーズのリビングバイブルやダイナミックエクイバレンスの現代訳もあります。

 

11、モーセ五書の著者問題について述べよ。

 

伝統的にモーセはモーセ5書の著者とされていますが、部分的に難しいところもあります。申命記の終幕はモーセの死と葬られたことについて書いてあります。創世記12:6は将来にカナン人がイスラエルからいなくなることを意味しますが、モーセが生きていた時はまだいたはずです。しかし、ヨハネ5:46-47などに、イエスはモーセが少なくともある分を書いたといっています。例えば、全体の内容について、人間の著者を一人と特定ができなくても、霊感による神の誤りのない言葉だと信じることができます。

 

12、創世記の神名について記せ。

 

1章では「神」。2~3章は「神である主」。4章は「主」。5章は「神」。6章は「主」から初め、9節以降「神」。7章は「主」。まとまった使い分けは目立ちます。この違いについて、「神」は創造主、全力であることを強調していますが、「主」は契約の主ということを強調しています。

 

13、創世記の「日」の解釈について述べよ。

 

「יוֹם」という単語は聖書の中で、さまざまの使い方があります。24時間の期間を指すほか、明るい訳12時間、一年間、季節、永遠などを指すこともあります。聖書の中で近い箇所の例を挙げると創世記2:4に「יוֹם」を用いて創造の一週間全体をさします。そのゆえ、文字の通りの解釈を信じるにしても、正確な創造期間が議論され続けています。

 

14、出エジプト記の年代について記せ。

 

紀元前15世紀早期説と紀元前13世紀の後期説があります。出エジプト記には、パロの名前など時代に対する決定的な証明する表記はありませんので、議論されています。

 

15、イザヤ書の統一性について説明せよ。

 

多くの学者によると、3つの時代で、3つ違う編集者によって、イザヤ書ができたと説明しています。その区分は1~39章、40~54章、55~66章になります。しかし、中に含まれている内容と外部の証拠で統一の書物を論じることもできます。書き方が変わったりするのも、どの人間においてもあり得るものですので、内容に合わせているというように説明できます。

 

16、ダニエル書の著作年代について記せ。

 

「ギリシャ」の名前が出てくるので、ダニエルが生きていた時代の後になると思われています。しかし、正確に詳細まで預言するものは他にもありました。また、考古学者によると書き方からすればダニエルが書いたことも論じることができます。

 

17、サムエル記Ⅰ・13:1「サウルは30歳で王位に着き、12年間イスラエルを治めた」とあるが

初代教会13:21にはサウルの治世は40年、と記されている。

サムエル記1・13:1にはなぜ「12年」と書かれているのか。

 

LXXのギリシャ語では、30歳+12年間になっていますが、へブライ語を読むと1年、2年となっています。

Westminster Leningrad Codex: בֶּן־שָׁנָ֖ה שָׁא֣וּל בְּמָלְכֹ֑ו וּשְׁתֵּ֣י שָׁנִ֔ים מָלַ֖ךְ עַל־יִשְׂרָאֵֽל׃

新共同訳などが、これについて下記のように訳します。

新共同訳: サウルは王となって一年でイスラエル全体の王となり、二年たったとき、

スリヤ語のペシタはこの点で21歳として、また別の年齢が記載されています。英語の翻訳の一部(NAB, NRSV)はこのような、不統一に対して、この数字を「…」と表記します。

 

18、サムエル記Ⅱ 14:1新改訳聖書では、「ダビデがアブシャロムに敵意を抱いている」と訳し

ているのに対し、共同訳は「好意をいだいている」と訳している。これには、どのような理由が

あるのか。

 

וַיֵּ֖דַע יֹואָ֣ב בֶּן־צְרֻיָ֑ה כִּֽי־לֵ֥ב הַמֶּ֖לֶךְ עַל־אַבְשָׁלֹֽום׃

直訳:その王の心はアブシャロムに

この「心が〇〇に」の表現の意味が複数あるので、訳が違ってきます。文脈的には敵意適切と思われます。

 

19、「呪いの詩篇」は、どのように理解したらよいか。

 

祈るときには正直に私たちの気持ちを神様の前に表さなければなりません。

 

20、ブルトマンが「史的イエス」と「信仰のキリスト」を分離した理由について述べよ。

 

考古学者の学術を利用して、言われる信仰のキリストは神話に過ぎないとし、史的イエスを考え直すことをしようとしました。しかし、信仰のキリストこそ、史的であることが重要な事実です。歴史的な証拠をみても、信仰のキリストはきちんといました。神話化された前提が間違いです。

 

21、マタイの「系図」とルカの「系図」の関係について記せ。

 

マタイの系図は王家の系図と言われていて、ヨセフにつながります。ルカの系図は祭司の系図と言われていて、マリヤにつながります。

 

22、マタイ1:18以下、マリヤとヨセフは婚約中であるのに、なぜ「夫」「妻」と呼ばれているの

か。

 

当時のユダヤ教の結婚は2段階にされたものでした。第1段階は現代の婚約のような状態です。この期間中に別々で暮らし、夫は家を準備します。準備が完成したら、第2段階として妻を迎えます。しかしながら、第1段階の時点から夫と妻として約束されて、法律上でもそうであることが認められました。

 

23、ユダヤ教の立場では、マタイ1章のマリヤが処女であったという記述は、70人訳の誤訳から生じたものであると言われているが、そのことについて述べよ。

 

イザヤ7:14にある「少女」の意味を持つヘブライ語の言葉を、ギリシャ語に訳した時、乙女の意味を持つ言葉に変えたといわれています。マタイの福音書の時に同じ乙女の言葉が使われています。超自然的な産まれ方は、イエスが来た目的をなすために必要不可欠でした。

 

24、マタイ2:2と2:9の明るい星は自然現象か、それとも超自然の現象なのか。

 

納得できる自然現象の説もありますが、はっきりと細かく導き、場所に止まったとされる点において、超自然的な現象と思われます。

 

25、マタイ5:43「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。旧約聖書には「自分の敵を憎め」という

言葉は無いのに、どうしてこのように書かれているのか。

 

「あなた方は聞いていると書いてある通り」と言い、「旧約聖書に書いてあるとおり」と言いませんでした。律法学者はこの箇所について、「隣人」はユダヤ人に限りもので、ほかの人は憎んでいいという説明がされていました。

 

26、マルコ16:9~20(ヨハネ7:53~8:11、マタイ6:13、ヨハネ5:4、使8:37)

これらの箇所はどういう意味か。

 

最も古くて信頼されている写本にない箇所なので、後で追加されていたとされている箇所です。追加になったゆえ、その霊感が問われますが、聖書に残していることからしては一般的にはプロテスタントの教会は、この霊感を受け入れられています。

 

27、マルコの福音書において、アラム語が出てくるが、どうしてか。

 

ガリラヤ湖の近辺ではアラム語が使われて、イエス様とペテロなどの弟子の母国語でしたからです。また、マルコがペテロの視点から書いたとされていますので、ガリラヤ地域の言葉を使いました。

 

28、ヨハネの福音書の著者は誰か。ここで使われている時間は、ユダヤの時間か、ローマの時間か。

 

ヨハネの名前のある人物は多くありますので、使徒ヨハネと別に宣教士のヨハネなど、別の人物がいたと主張する人がいます。この中で、ヨハネの名前が使われないので、使徒ヨハネによって書かれていると思います。ヨハネはローマの時間を使っていたと思われます。

 

29、ヨハネの福音書5:1の「祭り」は何の祭りか。13章の洗足は礼典なのか。

 

過ぎ越しの祭りと思われています。洗足は一般的なキリスト教の礼典になりませんでした。しかし、イエスの例に従って、愛し合って、奴隷的に仕えあうことを実行しています。

 

30、使徒の働き1:15~26の12使徒の補充は間違っていたのか。

 

まだ聖霊を受け入れていなかった弟子たちが旧約聖書のウリムとトンミムのように神様の御心を知ろうとしていたといえます。特に間違っていたと思いませんが、現在では聖霊を受けているクリスチャンは聖霊に頼るべきです。

 

31、使徒の働き5:1~10のアナニアとサッピラの事件を、どう理解したらよいのか。

 

信者と言いながら、心と行為は福音によって変えられませんでした。バルナバにあった、人間と神からの好意と油注ぎを妬み、形だけを取ろうとしたことから、全能で全知の神様を信じていなかったことが分かります。尾山先生の説だと経綸の入れ替わりつつの旧約経綸の出来事と説明してくださいました。

 

32、使徒の働き8:4・・・・なぜ迫害の中で宣教できたのか。

 

弟子としての教えに加えて、訓練を受けていましたでしょう。

 

33、使徒の働き9:1~2で、サウロはなぜクリスチャンを迫害したのか。

 

人間にすぎないが神と名乗っていたイエスを信じていた、その弟子も申命記13:1~5のような偽預言者と思っていたので、殺すことがモーセの律法的に合法で義務としていました。

 

34、使徒の働き11:15での聖霊のバプテスマについてどのように理解するか。

 

第二の恵みとして聖霊のバプテスマによって賜物が与えられ、奉仕のために力が備えられることになります。

 

35、使徒の働き14:23と、テモテⅠ・3:6との整合性について述べよ。

 

「彼らのために教会ごとに長老たちを選び」とありますが、「彼らのために」とは「彼らの中から、新しく信じた人」に限らないで、前から一緒に旅していた人かもしれませんし、ペンテコステの日にエルサレムにいた人かもしれません。

 

36、使徒の働き15:20,29・・・エルサレム会議ではなぜこのことを付け加えているのか。

信仰のみによる救いとは矛盾しないのか。

 

これらの律法はモーセによってユダヤ人に与えるよりも前、ノアとその子供、すなわち全人類に与えられた永遠なものと考えられていたからです。これにより救われるのではなく、他人をつまずかないための愛の表れです。また、イエスが律法をなくしたわけではなく、私たちがイエスに似ていく中で、私たちが自分や他人に害を加えないために神様が愛をもって与えられた原則に従っていける恵みも与えられます。罪の奴隷でも、ルールの奴隷でもなく、御霊によって生まれ変わり、心の一新によって御霊の道に歩んで、御霊の実を結ぶものは、肉の欲望に従いません。

 

37、使徒の働き16:37・・・パウロはなぜ後になって、ローマの市民権を主張しているのか。

 

ピリピの教会が法的に迫害から守られるため、主張したと思われます。

 

38、使徒の働き19:1~6・・・この箇所をどのように解釈するのか。

 

聖霊を受けたかを聞くパウロの姿から、ヨハネの悔い改めのための洗礼しか受けていなかったことで聖霊の実を結ぶ生活していなかったことが分かります。イエスの名によって洗礼を受けなかった人達は罪の悔い改めだけではなく、聖霊を受けて、新しいクリスチャンとして生き方が変わります。

 

39、コリントⅡ 12:1~10・・・「肉体のとげ」とは何か。「幻」とは何のことか。

 

幻は超自然的に目で見えたものです。パウロの肉体のとげははっきりしていないが、おそらく、罪の誘惑でなく、病などのような身体の弱さと思われます。

 

40、コリントⅡ 13:1・・・「3度目の訪問」と言っているが、いつ2度目の訪問をしているの

か。

 

AD55年前後と思われています。この旅について、1コリント16:6~8にも書かれています。

 

41、ガラテヤ人の手紙の宛先(北ガラテヤ説と南ガラテヤ説)について述べよ。

 

伝統的に、ガラテヤの北の地方あてに書かれていますが、聖書的には、パウロが南ガラテヤにしか行っていませんでした。ほかの考古学、言語的などの証拠も南を指すものが多くあります。

 

42、ガラテヤの教会に侵入した異端はどういうものか。

 

恵みではなく、律法に生きること、特に割礼されないと救われないという異教的な教えを持っていました。

 

43、ガラテヤ人への手紙2:3・・・テトスは割礼を受けたのか。

 

強制的に受けさせていないと書かれていますが、はっきりと受けていないとは書かれていません。反対に割礼について、たくさん書いたことや、「強いられていない」という言葉から、テトスは受けていたけど、その受け方は自発的で、その割礼は救いに関係はないことを説明しないと行けなかったではないかと思われます。

 

44、エペソ人への手紙は回状なのか。

 

ラオディキアなど、その地方全体に対して書かれていた回状と思われています。

 

45、ヨハネの黙示録の解釈について述べよ。

 

1世紀に起こったことを象徴的に表している解釈や、歴史的な流れを示している解約、将来に起こることを示している解釈などもありますが、まず1章1節にある「イエス・キリストの黙示」であることから、なによりも黙示録はイエスキリストについての啓示だと思います。1章の中でも、イエスについての名前と特徴的な表現がたくさんあります。そういう意味で黙示録の中でイエスキリストをあらゆる面で見ることができます。そのため、たとえば、中にでてくる出来事のタイミングが分からなくても、現在の私たちにとっても意味のあるものだと思います。

まず2章~3章の教会への手紙は直接さしていた1世紀の当時の教会へのものだと思いますが、その教えについても直接に指していない現在の教会にも適応できる変わらない注意と真理はあります。(旧約聖書のイスラエルにあった教えと出来事も直接現代の教会をささないけど学んで適応できるものがたくさんあると同じように)

また、4章から20章まで出てくる封印、ラッパ、器などから、神様はタイミングを知らせたいというより、神の敵が滅ぼされるという確実な計画はあり、敵が滅ぼされる時に生きているイエスを信じるものは必ず救われることだと思います。もしそのタイミングをもっとはっきり教えたかったのであれば、それを示すことができました。

21章以降は永遠の状態、新しい天地についての約束を示しますが、その詳細に関しても象徴的に表していると考えられます。

 

 

02: 聖書通論 Bible Overview

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参考資料 https://www.amazon.co.jp/聖書の概説-尾山令仁/dp/4897020484/ 

第一第  旧 約 聖 書

第一章  緒  論

1 キリスト教においては、根本的に重大な問題に対して、どのようなことを前提として主張するか。

神こそ正しい。神様からくる知識は正しい知識という前提です。人間による意見ではなく、全宇宙を作った創造主の意見は絶対的に正しいです。

2 聖書はどのような意味での神の啓示なのか。

神様がご自分の意見を伝えようとする発表です。2ペテロ1:21 「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

   第二章  人類の起源・堕落・展開 (創1-11章)

     第一節  天地創造、および人間の創造 (創 1-2章)

1 聖書が一番はじめにしるしていることは何か。

万物が無から、創造主によって創造される話から始まります。

2 神が多くのものを創造された中で、何を創造されることが主目的であったか。

神のかたちに似せて造られた、神の栄光を表すように作りました。イザヤ43:7 「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」

3 人間は「神のかたち」に似せて造られたと教えられているが、「神のかたち」とは何か。

外見ではなく、エペソ4:24によると「真理に基づく義と聖」。

4 神が人間を造られた時、神は人間に禁止事項を設けられた。それは何を表わしているか。

神様なしでは、善悪を知ることができなくて、神様に頼らなければいけません。

     第二節  人間の堕落と救主についての最初の約束 (創3-5章)

1 人間は、罪に陥った結果、どうなったか。

神様から離れてしまい、永遠の死が定められました。ローマ5:12 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」

2 救主についての最初の預言は、聖書のどこに出てくるか。

創世記3:15 「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

3 カインがアベルを殺したことによって、人類の歴史の流れはどのようになったか。

人間の一致が分裂しました。呪われた文化の中に住むものが別にされた。

     第三節  ノアの洪水と箱舟 (創6-9章)

1 ノアの洪水と箱舟は何を表わしているか。

イエスによる贖いの型として、神に対する反逆が原因のわざわいから神様の計画により、人が救われました。

2 不信仰な人々が洪水によって滅ぼされてしまったにもかかわらず、罪は地上から全く姿を消してはしまわなかった。それでは、神は何のために洪水を起こされたのか。

2ペテロ2:5, 9; また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。... これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。

ヘブル11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

正義なる神は罪に対して、罰を与えなければ、正義ではありません。洪水の後また罪を起こすことを通してわかることは、ノアとその家族の救いは神様の恵み、信仰によるものです。

     第四節  人間の文化的発展 (創10-11章)

1 バベルの塔の建設は何を表わしているか。

創世記11:3~4 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

3節に新しい建設法が開発されていたことが書いてあります。この科学的な先端技術があれば、人間は神様を超えることができると思いこんだプライドが4節で見れます。現代にも同じく、科学に頼る高慢で神様はいらないという人がたくさんいます。

2 バベルの塔の建設に対して、神はそれをどうされたか。また神はどのようなやり方をされたか。

神様は言葉を混乱させることによって、人間が一致できなくなりました。

   第三章  族長時代 (創12-50章、ヨブ記)

     第一節  アブラハムの生涯 (創12-25章)

1 アブラハムへの神の祝福はどのようなものであったか。

アブラハムに土地、子孫(種=イエス)、祝福が約束されました。この約束は一方的で、無条件です。この祝福を通して、すべての国民に祝福が流されていくことも約束されています。

2 アブラハムの生涯における最大の試練は何か。その試練の目的は何であったか。

神様は自分の子、イサクを生贄としてささげることを仰せられました。この試練を通して、アブラハムの信仰が確かなものとされて、信仰の模範になりました。

ヘブル11:17~19「 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」

     第二節  イサクの生涯 (創21-28章)

1 アブラハムの信仰とイサクの信仰のそれぞれの特徴は何か。

アブラハムは神様に語られて信じましたに比べて、イサクは直接語られなくても素直に受け取る信仰も偉大です。アブラハムは信仰によって進む人で、イサクは信仰によって譲る人という風にも言えます。

     第三節  ヤコブの生涯 (創25-46章)

1 エサウとヤコブの相違点について述べよ。

 兄、エサウは猟が好きで毛深くて、父に近くて男の中の男でしたが、弟、ヤコブは料理を作る、ママ好きで毛が薄いでした。エサウはローカルの女性と結婚して、家族を困らせましたが、ヤコブは元の国の親族の家の娘を嫁に迎えました。エサウはいろいろな意味で最初からものをもっていたが、ヤコブはいろいろな形で他人のものを自分のものとします。エサウの子孫はエドムという国民になっていきますが、ヤコブはイスラエルという名前が与えられました。これは、エサウは信仰など受け継ぐべきものを放して、ヤコブを通して約束された種が来ました。

     第四節  ヨセフの生涯 (創37-50章)

1 ヨセフの信仰の特徴は何か。

ヨセフは神様に与えられた夢を持ち続けて、試練が繰り返す中で忠実に仕えて神様の好意を体験します。その試練や大変な出来事、わざとひどい目に合わせることがあっても、このものでも神様は私の益のために用いると宣言できる信仰を持っていました。

2 ヨセフの生涯をとおして教えられることは、どんなことか。

 ヨセフのように、神様に与えられている夢について、あきらめてはいけないのです。時にはそれが遠く感じることはあるかもしれませんが、どんなに辛い状況に置かれても、忠実に仕えるべきです。食物となるみ言葉を蓄えてきた僕を通して、神様は世界中の霊的な植え乾きを持つ今の人を満たしたいと願っています。

     第五節  ヨブの生涯 (ヨブ記)

1 ヨブの苦難は何のためであったのか。

 ヨブとその周りの人を取り扱い、人格を形成しました。また、この人間にとってどうしようもない状況に動く神様の恵みと栄光が表されました。

   第四章 エジプト、および荒野におけるイスラエル

            (出エジプト記-申命記)

     第一節  出エジプト以前のイスラエル (出1-12章)

1 パロのイスラエル民族弱体化政策とはどのようなものであったか。

非常に厳しいものでした。強制労働に加えて、男の子が生まれる度に、殺さないといけない政策が設定されていました。

2 その結果はどうであったか。

神を畏れた助産婦は従わないで、神様がその民を祝福し、その民が多く、強くなりました。また、たくさんの仕事のやり方を覚えるほかに、自分たちの国に出向く意思を起こしました。

3 モーセのふしぎな生いたちについて、簡単に述べよ。

モーセは生まれた時、川に流されてパロの娘のところに来ましたので、パロの家で養子として育てられた。そこで、エジプトの支配人の生活習慣、文化などを学べました。

4 モーセの生涯を三つに大きく区分せよ。

モーセは若い頃、パロの家で育ちました。その後、羊飼いとしてミデヤンにいました。神様の召しを受けて、預言者としてエジプトに帰り、イスラエル人のリーダーとしてエジプトから連れ出し、荒野ですごします。

5 過越の祭の意味は何か。

過ぎ越しという、子羊の血により定められた死から贖われて、奴隷から自由人になる出来事が、イエス様という子羊の十字架で勝ち取った勝利と赦しを鏡のように映していました。

     第二節  出エジプトよりヨルダン川までのイスラエル (出13章-申)

1 荒野においてイスラエルはどのようであったか、簡単に述べよ。

40年間、主が食物を与え、雲の柱で導き、火で守り、戒めを教え、服までだめにならないようにして、エジプト文化の毒抜きをしました。しかし、何度もイスラエルは文句を言い、前に進む道を恐れて、過去の生き方に戻ろうとしました。そこで信仰を持つ民をモーセから新しく建て上げると仰せられた神様に対し、モーセは恵んでくださるように祈った時、神様が赦してくださいました。しかしながら、エジプトから出た世代で約束の地に入ることができたのはヨシュアとカレブだけでした。

     第三節  律 法

1 モーセの十戒の内容とその要約を述べよ

十戒はまさにイエスに言われた大事な二つからできます。最初の4つは神を愛せ、残りの6つは人を愛せの戒めの具体化になります。

1、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」この戒めはエジプト、奴隷の家からから連れ出したところから入るので恵みによるものだと分かります。恵まれたので他に礼拝すべきものはないです。一つの絶対的、変わらない神です。

2、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」神様が定める方法以外には、礼拝してはいけません。

3、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」この戒めのポイントは神様の権威を無視することはいけません。祈りと礼拝に主の御名を正義に、正しくとなえるべきですし、主の御名以外を唱えてはいけないことです。その名は「יהוה」、あってあり存在する、息をする生きておられる方です。

4、

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5、「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」前の世代から受け継ぐものは命のみならず、知恵や信仰、経験も継ぎます。そのために小さい子供は「従い」、大人になっても「尊敬」すべきです。

6、「殺してはならない。」肯定的に言い換えると「人々の命は守るべし」なので、「人の命を守る」意味で、この「殺す」に含まれていない類のものがあります。例えば死刑、自衛など。また、意外な人殺しになるものもあります。例えば、自殺、極端(暴飲、暴食、怠惰)、激怒は神様が与えられる命を守らない類のものになります。(参考:マタイ5:22)

7、「姦淫してはならない。」エペソ5:21にあるようにお互いに服従すべきであり、なぜなら結婚関係は神の権威の元でできています。この戒めを破ることは神の権威に対する罪になります。

8、「盗んではならない」盗むとは他の人の所有物を自由な同意なしと取り上げる。所有物に傷をつけたり、壊したりすることも。所有権の対象のものも。被害者が気づかなくても、(支払わない入場料など)盗むことになります。また、加害者の意図は関係ありません(出22:1-17など)。

9、「隣人に関して偽証してはならない。」これは、絶対的に、すべての時、すべての事について、すべての人に対して正直で答えなさいとは言っていません。ラハブが嘘をついて斥候を助けたこと、エジプトの助産婦の嘘など、信仰をもった嘘が聖書の中で褒められています。神様も、1列王記22:22-23に嘘の霊を遣わす場面もあります。しかしながら、サタンこそ「嘘の父」と呼ばれているように、神様は正しくないものを嫌うこともわかります。私たちは、隣人については正しい証言をすべきです。イエスキリストこど忠実な証人です。

10、「あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」申命記に、二つ違う「欲しがる」単語が出てきます。一つ目、「חָמַד」(ハマッド)はエバがエデンの園の木を見て、感情的に欲しがって「いかにも好ましかった」と思ったと同じ言葉です。もう一つ、「אָוָה」(アヴァ)、もエバが木を見て行為的に欲しがって「慕わしく」思ったと同じ言葉です。また、マルコ10:19にイエスはこの戒めを言い換えます:「『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」欲望そのものではなく、ほかの人のものに対する欲望です。1コリント12:31、私たちは優れた賜物を(英語KJV訳「covet」)熱心に求めるべきです。

   第五章  ヨシュアと土師時代 (ヨシュア記-ルツ記)

     第一節  ヨシュアによる征服と定住 (ヨシュア記)

l イスラエルのヨルダン渡渉と紅海渡渉とを比較して、類似点と相違点を述べよ。

紅海渡渉は敵からの避難に対して、ヨルダン渡渉は敵に向かって侵入する場面です。どちらの状況にも、道がないところに神様が道を備えて下さり、乾いた地に歩いて渡るという力ある奇跡はイスラエルと全世界に全能の神の証です。

2 ヨシュアに神の軍勢の将が現われたのはどういう意味か。

靴を脱ぐように言われた点と、「主」と呼んだことによって、この方は生まれる前、永遠から存在するイエスの現れではないかと論じることができます。

3 エリコの城はどのようにして陥落したか。

6日、黙って城壁を回りました。7日目は7回回って、7回目に牡羊の角のラッパをならし、それを聞いた全員が叫びました。

4 ヨシュアがカナンの地においておこなったことは何と何か。

戦争をかけて制服することと、イスラエルの民に神様の教えを教えた。

5 神はなぜカナン人絶滅の命令を下されたのか。

カナンの罪の重さです。これは一方的ではなく、イスラエルにも、同じ罪を起こしたら、同じ絶滅が定められました。申命記28:15~68。

6 旧約時代における神の経綸と新約時代における神の経綸との違いを比較せよ。

新約経綸における神の国は地的でなく天的で、一時的でなく永遠的で、民族限りでなく全世界的で、物理的でなく霊的です。

7 カナンの地を十二部族に分配した図を、左にある地図に書きこめめ。

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8 のがれの町とはどういう町で、どのような所に設けられたか。

 事故などで、誤りによって人がなくなれてしまった場合、加害者が逃げ込める町でした。申命記に6つの町が定められました。

    第二節 士師の時代 (士師記、ルツ記)

 1 土師時代においては同じようなことがくりかえされている。そこには同じパターン(型)

 が見られる。どのようなパターンが見られるか。

イスラエルの民が罪を犯し、隣の国に侵略され、神に呼び求めます。神様が士師を建て上げ、戦いで自由を勝ち取ります。次の世代に同じことが起こるというサイクルです。

2 おもな士師の名をあげよ。

オテニエル、エホデ、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソン

3 士師時代に現われた異邦人の美しい信仰者とはだれのことか。

ルツはモアブ人でしたが、ダビデそしてイエスの先祖になりました。

   第三節 サムエルの出現(サムエル上1-7章)

1 サムエルはどのような士師であったか。

1サムエル7:13-17

こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。ペリシテ人がイスラエルから奪った町々は、エクロンからガテまで、イスラエルに戻った。イスラエルはペリシテ人の手から、領土を解放した。そのころ、イスラエル人とエモリ人の間には平和があった。サムエルは、一生の間、イスラエルをさばいた。彼は毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、それらの地でイスラエルをさばき、ラマに帰った。そこに自分の家があったからである。彼はそこでイスラエルをさばいた。彼はまた、そこに主のために一つの祭壇を築いた。

   第六章  統一王国時代(サムエル上8章-列上12章、歴上10章、歴下9章、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌)

     第一節  サウルの統治(サムエル上8-31章)

1 サウル王は二つの戦いにおいて神に不従順であった。その二つの戦いとはどの民族との戦いで、その際の神への不従順とは具体的にどのようなことであったか。

ピリシタの人と戦って、自分で生贄をささげた。アマレクの人と戦い、殺すべきよいものを残しました。

2 ダビデとゴリアテの物語を簡単にしるせ。

青年の羊飼いダビデが、神に信頼して、防具や正確な武器ではなく、信仰の宣言と石投げで巨人を倒し、イスラエルを救いました。

3 エンドルの口寄せ女は、ほんとうに死人を呼び出していたのか。それを説明せよ。

1サムエル28:14 サウルは彼女に尋ねた。「どんな様子をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることがわかって、地にひれ伏して、おじぎをした。

この箇所で、本当に死人を呼び出さなくて、サウルがそうと思った、そう意識したという解釈はできます。

     第二節 ダビデの統治(サムエル下2-24章、歴上10章-歴下9章、詩篇)

l ダビデ王の治世の特徴は何か。

戦争が多くあり、ダビデと戦士が勝利し続けて、国が大きく広がります。

2 ダビデ王の時代のイスラエルの繁栄の基礎は何か。

戦利品をたくさん勝ち取りました。

3 ダビデ王の特徴は何か。

謙遜で礼拝と祈りに力を尽くした、神様の心にかなった人でした。詩篇22のように、キリストのはっきりした啓示を受けて、バテシェバの話に、死の定められた罪を犯しても、神様からの恵みを受けた人です。

4 ダビデ王のおこなった信仰的事業にはどのようなものがあるか。

1歴代誌16より:

16:4 それから、レビ人の中のある者たちを、主の箱の前に仕えさせ、イスラエルの神、主を覚えて感謝し、ほめたたえるようにした。

16:37 彼は、その場所、すなわち、主の契約の箱の前に、アサフとその兄弟たちをとどめておき、毎日の日課として、常に箱の前で仕えさせた。

16:38 オベデ・エドムと彼らの兄弟たちは六十八人いたが、エドトンの子オベデ・エドムとホサを門衛とした。

16:39 祭司ツァドクと彼の兄弟である祭司たちを、ギブオンの高き所にある主の住まいの前におらせ、

16:40 全焼のいけにえを、朝ごと、夕ごとに、絶えず、また、すべて主のイスラエルに命じた律法に書かれているとおりに、全焼のいけにえの壇上で、主にささげさせた。

16:41 彼らとともにヘマン、エドトン、その他、はっきりと名の示された者で、選ばれた者たちを置き、主をほめたたえさせた。「まことに主の恵みは、とこしえまで。」

16:42 ヘマンとエドトンの手には、歌う者たちのためにラッパとシンバルとがあり、また、神の歌に用いる楽器があった。また、エドトンの子らは門にいた。

5 ダビデの生涯には二つの大きな苦難があった。それは何と何によるものか。

ダビデは庶子(詩篇51:5)として家族に拒否(1サムエル16:10)されていました。王になっても、バテシェバとの姦淫によるすぐに死んだ子以外にも、異母姉をレープした息子アムノン、ダビデの複婚によって王家に分派ができて反乱したアブサロムも死なれました。ダビデの生涯は性的な罪から始まり、そして自分の性的な罪、次世代にも性的な罪の繰り返しによる苦難をたくさん体験しました。

第三節  ソロモンの統治(列上1-11章、歴下1-9章、箴言、伝道の書、雅歌)

1 ソロモン王の特徴は何か。

ソロモンは知恵に満ちて、あらゆる国からその知恵を聞くため人が来ました。それにイスラエルはソロモンの知恵によって栄えて、富にも繁栄しました。

2 ソロモン王の治世の特徴は何か。

平和と繁栄の時代でした。

3 ソロモン王の最大の事業は何か。

神殿を建て上げました。

4 ソロモン王の文学(著作)活動にはどのようなものがあるか。

ソロモンは箴言や伝道の書、雅歌、詩篇72、詩篇127など聖書の知恵の文学を書いたとされています。

5 知恵文学とはどのようなものか。

神様の定めに賢く生きるための、具体的な例をもって説明される聖書の書です。

6 ソロモン王ののち、王国が分裂した原因は何か。

ソロモンの息子は前の世代の知恵を拒否し、国民を厳しく治めようとしたことによって、国は二つに分裂しました。

第七章  分裂王国時代 (列上12章-列下25章、歴下10-36章、ヨエル、ヨナ、アモス、ホセア、イザヤ、ミカ、ゼパニヤ、ナホム、エレミヤ、ハバクク、オバデヤ)

第一節  北の王国イスラエル (列上12章-列下17章、ヨナ、アモス、ホセア)

1 北の王国イスラエルの王の多くに対して、次のような言及がなされている。「主の目の前 に悪をおこない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムの罪を離れなかった」(列下14・24、15・9、18、24、28)。この「ヤラベアムの罪」とは具体的に何のことか。

ヤラベアムは北の王国イスラエルに二つの黄金の牛の偶像を立てて、国民に偶像礼拝をさせました。

2 イスラエルにバアル礼拝とアシタロテ礼拝という偶像礼拝を持ちこんできたのはだれか。

士師記2:12-13から、周りの国の人からバアル礼拝、アシタロテ礼拝を受け入れました。のちには、ソロモン王は妻に影響されてアシタロテとモレクを拝むことになります。

3 預言者エリヤの生涯における顕著な出来事を2、3、簡単にしるせ。

エリヤはカラスから食物を受け、油と小麦粉が使われ切れなくなり、その家族の息子が蘇ります。祈った時に雨が降らなくなり、また祈った時神様は炎で答えて雨を降らせました。ホレブ山で神様が前を通りました。最後に、エリヤは火の馬車で天に連れていかれました。

4 ヨナ書の書かれた根本目的は何か。

神様の使命から逃げることができません。神様の計画は成し遂げられます。ヨナの印を見せたイエス様も、杯を取り除くことは許されませんでした。愛なる神様はすべての国に悔い改める機会を与えて、それの応答するものは救われます。

5 アモス書の中心メッセージは何か。

社会的に弱い立場の人に対して、誠実に扱わないといけません。富を何よりも優先するという罪を注意しました。

6 ホセア書で訴えているメッセージは何か。

人が不忠実でも、神様は忠実です。人は罪に逃げても、神様は買い戻して、贖いたいです。

第 二節  南の王国ユダ (列上12章-列下25章、歴下10-36章、ヨエル、イザヤ、ミカ、ゼパニヤ、ナホム、エレミヤ、ハバクク、オバデヤ)

1 列王紀と歴代誌の相違点を二つしるせ。

列王記は北の国の出来事、エリヤとエリシャの話を説明するに比べて、歴代誌は南のユダ国とその王を中心とします。

2 北の王国イスラエルと南の王国ユダの相違について述べよ。

北の王国イスラエルはエルサレムの神殿がなくて、一人も神様に従った王様がいませんでした。それと比べて、悪い王もいたが、南の王国は神様に従った王が多かったです。地理的にも、東からくる敵の国から少し近かったということもありますが、南より北の方が先に滅びります。

3 ヨエル書のメッセージは何か。

裁きの苦難の日に備えて、悔い改めるべきです。

4 イザヤ書52章13節-53章12節にしるされている「苦難のしもべ」とはだれのことか。

イエスの十字架の苦しみが預言されていました。

5 ミカ書のメッセージは何か。

当時のイスラエルとユダに来る苦難の忠告と一緒に、望むべき来られるメッシアについて預言しました。

6 ナホム書のメッセージは何か。

ヨナのメッセージを忘れたニネベに対する忠告です。

7 ゼパニヤ書のメッセージは何か。

苦難が来ても、神様は自分のために残す民を守ります。

8 預言者エレミヤの特徴について述べよ。

エレミヤはエルサレムの戦略と堕落の中にいました。その悲しい日の中こそ哀歌も書きました。暗い穴の中に主にいた時も、救いを求め叫び、主に救われるメッセージを語ります。

9 ハバクク書の中心メッセージは何か。

ユダはバビロンに落とされて、バビロンも暴力が裁かれることを預言し、でも神様の計画は偉大で、全世界は神様を知ることになります。

10 オバデヤ書のメッセージは何か。

エドムはエサウから産まれた民族で、イスラエルの従兄のような存在のはずなのに、エドムは裏切ったことに神様の裁きがあると預言します。この書の中にはイスラエルの帰還も預言します。

第8章  捕囚、および捕囚後(列下24-25章、歴下36章、ダニエル、エゼキエル、エズラ、ネへミヤ、ゼカリヤ、ハガイ、エステル、マラキ、詩篇)

第1節  バビロン捕囚(列下24-25章、歴下36章、ダニエル、エゼキエル、詩篇)

1 イスラエルやユダの人々はなぜ捕囚になったのか。

偶像礼拝などの背教が主な理由でした。

2 捕囚の間における預言者のはたした役割は何か。

捕囚中の預言者は帰還とメッシアに対するメッセージを伝えました。

3 ダニエル書に出てくるネブカデネザル王が見た金・銀・青銅・鉄・粘土の像は何を表わしているか。

バビロンという金の頭、メデア=ペルシアという銀の胸、ギリシャという青銅の胴、ローマという鉄の脚。粘土の足については様々な説明がされるが、その時に現れる石が全世界に広がるのが、神の御国であり、イエスキリストが国を設立する意味になります。

4 エゼキエルがエレミヤと同様に強調したことは何か。

エルサレムへの警告です。どうしても、エルサレムは滅ぼされることを預言します。ただ、メッシアが来て、その国も建て上げられる。

   第二節  帰還、および帰還後 (エズラ、ハガイ、ゼカリヤ、エステル、ネへミヤ、マラキ、詩篇)

 1 ペルシャの王クロスはまことの神を信じてもいないのに、なぜイスラエルを故国に帰還させたのか。

エズラ1:1~4

ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」

どの神に対しても尊敬を表すことによって、それぞれの好意を頂けると思うのが、ペルシアの考え方でした。

2 第一回の帰還は、だれにひきいられて帰ってきたのか。

エズラ。

3 ハガイ書のメッセージは何か。

神殿を完成するように伝えました。

4 ゼカリヤの中心メッセージは何か。

神殿を完成させるとともに、来られるメッシアについて預言します。ロバになり、裏切られ、苦しみを受けることまで明確にします。

5 エステル記には神の名が出てこない。それでは、この書はどのような信仰的教訓をもっているのか。

見えなくても、聞こえなくても、神様が力強く働いて、信じるものを守ってくださいます。

6 第2回の帰還は、だれにひきいられて帰ってきたのか。

エズラ。

7 第3回の帰還は、だれにひきいられて帰ってきたのか。

ネヘミヤ。

8 マラキ書の預言は何か。

「万軍の主は仰せられる」という言葉を用いていて、預言であると思われます。

9 詩篇がイスラエルのさんび歌になるのはいつごろか。

帰還のころと思われます。

  第 二 篇  新約聖書

   第一章  緒 論

1 旧約時代の終わりから主イエスの時代までの間、パレスチナはどこの国の領土からどこの国の領土へと移り変っていったか。

ペルシア→ギリシャ→ローマ。

2 救主イエスが来られたころのパレスチナの政治的状態と文化的状態と宗教的状態について簡単に述べよ。

ローマ帝国の中に、現地のヘロデ家庭を王家として、設定しました。文化的にはギリシャ文化、コイネギリシャ語、ギリシャ哲学の影響を強く受けたユダヤ人は、聖書の本来の意味から遠く離れた解釈に進んでいた。宗教的には、律法学者が細かく哲学的に聖書を解釈しようとして、本当のメッセージを忘れていました。

3 へロデ大王の子どもたちは、それぞれどこの領主であったか。

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4 七十人訳はいつごろ、どこで、何語から何語に訳されたものか。

紀元前の200年代に、アレクサンドリアで、ヘブライ語からギリシャ語に、七十人訳はできました。

​​​​​​​5 サンヒドリンとは何か。

最高裁判権を持ったラビの集まりでした。

6 救主イエスが来られたころ、ユダヤ教にはどのような派があったか。

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熱心党とサドカイ派は自然の象徴しか受け入れなくて、復活などの霊的な真理を受けいりませんでしたが、どうしてもイスラエルの再建国を待ち望んでいました。パラサイ派は律法学者で律法を守り通すという理解でした。この他には、取税人など、ローマの支配を受け入れたものもいました。また、聖書に出てこない、クムランなどの派もありました。

   第二章 救主の地上生涯 (福音書)

      第一節 救主のご降誕 (マタイ1-2章、ルカ1-2章、ヨハネ1・1-18)

 1 救主はなぜ処女降誕をされたのか。

完全で人間でなければなりませんでした。そうじゃなければ、人類の救いになれなかった。

2 救主のご降誕と旧約の預言との関係はどのようか。

イザヤ7:14 「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」

ミカ5:2 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

3 救主イエスが「律法の下に」服されたとはどういう意味か。

結婚生活(肉体的な関係)が進んでいないのに、律法的には結婚されていました。

第二節 救主の出現・バプテスマ・荒野の試み(マタイ3・1-4・11、マルコ1・1-13、ルカ3・1-4・13)

 1 救主イエスは、ご自分は罪をもっておられないのに、なぜ罪の洗いきよめを意味する洗礼を受けられたのか。

罪がなかったので、罪の身代わりになれました。もし自分の罪があったならば、その罪のためにしか死なれなかったのですが、罪がなかったゆえ、身代わりになれました。

2 荒野における試みは何を意味したか。

生活問題、宗教問題、政治問題と言える、人間にとっても理解できるものです。十字架なしの成功で誘惑しかけました。これにイエスはみ言葉を通して勝利を得続けて、十字架のわざをやり遂げてくださいました。

第三節  救主の御働き(教え・奇跡・伝道など)・ご人格  (マタイ4・12-25・46、マルコ1・14-13・37、ルカ4・14-21・38、ヨハネ1・19-12・50)

 1 地上生涯における救主イエス・キリストについて、わたしたちが知らなければならない二つの点は何と何か。

人格と御業です。

2 救主イエスの地上生涯における公けの約三年余りの御働きを三つあるいは四つに大別せよ

無名の年、人気の年、反対された年

3 救主イエスの教えは何についての教えであったか。

御国の教えが多く、天にあるように地上にもなるように教えました。そのため、人は天の御国の文化を霊によって受け取ることを教えました。それは、律法によって受けるものではなく、恵みによって受けるものです。ヨハネ1:17「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」

4 救主イエスはご自分のことを「人の子」と呼ばれた。これはどのような意味か。

 神でありながら、完全に人間であること。また、ダニエル7:13の預言を実現していること。

 5 救主イエスのなされた奇跡は何を意味するものであったか。

 イエスが神様でいり証、人の問題について、イエスも心配してくださっていて、そして解決できる証になります。

 6 救主イエス・キリストのご人格について、とくにわたしたちが知っておくべき三つの点について述べよ。

完全に神であり、超自然的に全能の力をもって、天地の創造主、始まりも終わりもない永遠の存在です。

完全に人間になり、父なる神の権威に従い、へりくだって人を愛し、僕となりました。

罪なく、聖く生まれて一生生活し、すべて信じる者の救いのため死なれて蘇って、今も生きておられる。

第四節  十字架・復活・昇天 (マタイ26・1-28・20、マルコ14・1-16・20、ルカ22・1-24・53、ヨハネ13-21章)

 1 救主イエス・キリストは、過越の祭の時、その食事の席において聖餐式を制定された。それなのに、過越の食事の中心であり、救主イエス・キリストを表わしている小羊を使って聖餐式を制定されず、パンとぶどう酒を使われたのはなぜか。

イエスが血を流し完了しましたので、その過ぎ越し以降は生き物の血の生贄による贖いの必要がなくなったこと、イエスの捧げものは十分であることを示しています。

2 ゲツセマネの園での救主イエスの祈りはどのような意味をもっているか。

人間の弱さを持った自分の意志と違う、御心に従う決断をして、成し遂げるために強められました。

3 十字架上で救主イエスが語られた七つのことばをしるし、その中で、とくにあがないの御業を裏付けるのに不可欠のみことばはどれか。

★  ルカ23:34 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

ルカ23:43「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

ヨハネ19:26-27 「女の方。そこに、あなたの息子がいます」。。。「そこに、あなたの母がいます」

マタイ27:46「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

ヨハネ19:28「わたしは渇く

ヨハネ19:30「完了した」

ルカ23:46「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

4 救主イエス・キリストの復活は、何を意味するか。

死の血からが打ち破り、永遠の命の証です。ヨハネ14:19...わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

5 洗礼の礼典はいつ制定されたのか。

レビ記に清めるために洗うことが制定されている箇所もありますが、ユダヤ人が罪の清めのために体を完全に浸かれて、「מִקְוֶה」(ミクワー)という水槽に「טְבִילָה」(テビラー)という礼典を行うことがバビロンの捕囚ぐらいから、考古学的にわかっています。

   第三章  初代教会 (使徒行伝、手紙、黙示録)

      第一節  ペンテコステとエルサレムの教会(使1-8、15章)

 1 ペンテコステとは何か。

過ぎ越しから50日後にシャヴオット(七週の祭)が持たれます。(出34:22) イスラエルで麦を刈り取る時の感謝際で、ユダヤ教ではこの日はモーセが十戒を受け取ったとされていています。

2 初代教会最初の殉教者ステパノはどのような歴史的洞察をもった説教をしたか。

使徒7:51~53

ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。

3 ピリポはどのような働きをしたか。

使徒6章に選ばれた七人の一人で、使徒8章でエチオピアの人に福音を伝えました。その後21章にカイザリヤに住んでいて、伝道者という肩書を持って、パウロをもてなしました。

   第二節 ペテロの働き (使2-5章、9・32-12・19、ガラテヤ2・11-14、第一ペテロ、第二ペテロ)

 l ペテロに示された幻(使10)は何を意味したか。

使徒10:34-35

そこでペテロは、口を開いてこういった。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。

2 ペテロの第一の手紙はどのような目的で書かれたのか。

いろいろな試練の中で、イエスを信じ続けて、正しい生き方に励むように教えています。

3 ペテロの第二の手紙はどのような目的で書かれたのか。

似せ預言者、偽教師の間違った教えに騙されないで、イエスの再臨の日に向けて正統的な信仰を持ち続けるように教えています。

   第三節 パウロの働き(使9・1-31、13-28章、第一テサロニケ、第二テサロニケ、ガラテヤ、第一コリント、第二コリント、ロ-マ、ピレモン、コロサイ、エペソ、ピリピ、第ーテモテ、テトス、第二テモテ)

 l パウロの背景を、政治、文化、宗教の三つの面から簡単にしるせ。

パウロはサウルとしてタルススにて生まれて、ローマの市民権を持ちました。パリサイ人の子でパリサイ人で、エルサレムのガマリエルという非常に有名なラビの元で律法学者として教育を受けてユダヤ教に深く進んだのみならず、ギリシアの言葉と哲学においても優秀でした。

2 パウロの劇的回心について簡単に述べよ。

パウロは元々キリストを信じるものを熱心に迫害していました。ある日、突然な光に覆われて、イエス様に語られた。その時から目が見えなくなったが、イエス様に言われた人のところに言って祈ってもらったら、目からうろこのようなものが落ちて見えるようになりました。旧約聖書を新しい霊的な目で読み直し、イエスキリストの真理を研究しました。そして、バルナバなどと宣教の旅に出かけて行って、教会を建て上げていきました。また、新約聖書になった書物を多く書きました。

3 「キリスト者」という名称は、いつごろ、どこにおいて最初に使われるようになったか。

エルサレムで迫害を受けて、アンテオケに避難した時から、キリスト者の言い方が広がりました。

4 パウロの第1回、第2回、第3回伝道旅行とローマ行きをそれぞれ色別にして次ページの図に、書きこめ。

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5 使徒会議と呼ばれる会議は、いつごろ、どのような事情によって開かれたのか。

50年ごろにエルサレムで、異邦人のクリスチャンがどこまで、モーセの律法に従うべきかを議論しました。特に、割礼について、異邦人は受けなくてもいいと決断しました。

6 使徒会議の直後アンテオケにおいて起こった事件(ガラテヤ2・11-21)を、簡単に解説せよ。

ペテロが異邦人と仲良くしていたのに、割礼派の影響を受けて異邦人から離れ始めていたことに対して、パウロが直接反対しました。律法ではなく、キリストの恵みの中に生きるべきことを強く語りました。

7 パウロの十三の手紙は、いつ、どこで、どのような必要から書かれたものか、それぞれについて簡単に述べよ。

ローマ:57年ごろ、コリントで書きました。ローマの教会はユダヤ人と一緒に、比較的に異邦人が多くいましたので、文化の違いが大きな問題でした。そこで、律法でなく、恵みによる救いを明らかに説明し、真に解放された人生について教えました。

1コリント:55年ごろ、エペソで書きました。コリントの教会はワイルドでしたので、従順な礼拝について、またキリストにある自由は罪のためではないことを語りました。愛という賜物を熱心に求めて、聖餐式はお互いに意識し、聖霊の働きの目的は他人を強めるためなどと一体化を強調しました。また、性的な罪に進みながら、立場ある信者という人を教会から出すように教えました。

2コリント:55~57年ごろ、マケドニアで書きました。1コリントで強く語った分、2コリントで和解をします。ある人はパウロの権威と使徒であることを疑っていたので、使徒であることも証します。

ガラテヤ:49年ごろ、アンテオケで書きました。ローマの手紙の内容と似ていて、異邦人の多い教会で、割礼など旧約の律法ではなく、神様の恵みに生きることを教えます。ガラテヤの5章の肉の欲望と御霊の実の箇所が有名です。

エペソ:60年ごろ、ローマで書きました。エペソの教会は自然の目の前の問題にとらえられて、霊的な戦い、霊的な勝利、霊的に受け継ぐものなどに注目するように教えます。

ピリピ:61年ごろ、ローマで書きました。頂いた贈り物の感謝と信仰を励まし、たえず喜ぶように教えます。

コロサイ:60年ごろ、ローマで書きました。神様の性質、キリストが神であることなど、間違った教理をただすように教えています。また、同じぐらいのタイミングでエペソに書いたとされていて、似ている部分もあります。

1テサロニケ:51年ごろ、コリントで書きました。信仰を励まし、イエスの再臨について教えます。

2テサロニケ:52年ごろ、コリントで書きました。イエスの再臨、主の日がまだ来ていないと教えます。

1テモテ:64年ごろ、ローマかマケドニアで書きました。若い指導者テモテを励まし、教会のリーダーシップについて教える。

2テモテ:67年ごろ、ローマで書きました。エペソの教会を牧会しているテモテに燃え尽きてしまわないように、また最後の指示を教えます。

テトス:64年ごろ、ローマかマケドニアで書きました。クレタ島で牧会しているテトスを励まし、教会のリーダーシップについて教える。

ピレモン:60年ごろ、ローマで書きました。逃げた奴隷オネシモを受け入れるように、元主人ピレモンに説得します。

第四節  ほかの人々の働き (ヤコブ、へブル、ユダ、第一ヨハネ、第二ヨハネ、第三ヨハネ、黙示録)

 1 ヤコブの手紙が強調しているのは、どういうことか。

正しい生き方をするように。行動の伴う信仰生活。

2 へブル人への手紙は何について書いているのか。

旧約聖書の内容から、キリストを信じるように、ユダヤ人に説明しています。

3 ユダの手紙はどういう目的で書かれたか。

間違った教え、権威に逆らう人から遠ざけるように。

4 ヨハネによる福音書はどういう目的で書かれたか。

イエス様の生涯を通して、福音を信じるように。

5 ヨハネの第一の手紙は、どういう目的で書かれたか。

福音を信じた人が救いの確信を持つように。

6 ヨハネの第二の手紙、第三の手紙はどういう目的で書かれたか。

二人の信仰に感謝し、真理と愛に歩み続けるように。

7 ヨハネの黙示録はどういう目的で書かれたか。

1:1-3 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

イエスについての啓示で、その方が持っておられる計画を明らかにし、読む人、聞く人、心に留める人が祝福されるように。

01:聖書解釈学 BibleHermeneutics

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1. 聖書解釈学とはどういう学問ですか?

「Hermeneutics」(聖書解釈学)とは解釈の科学です。クリスチャンにとって、聖書の言葉を正しく理解することは聖なる務めです。宗教改革以来プロテスタントはSola Scriptura*を掲げて来たゆえに、正しい信仰とは何かを検討する中で、聖書が最終的な判断基準を持つということは、聖書の解釈がいかにも重要な意味を持ちます。使徒17章10~12節に紹介されるべレアのユダヤ人に見習い、私たちはメッセージや教えのみならず、さまざまな信条や伝統に伝わる内容でさえも、そのまま素直に受けとるのではなく、誤りがないか、聖書の通りなのかを調べることが、神様から与えられている義務です。「解釈」の仕方、そのものを学ぶことによって、自分の考えていることは人間によるものではなく、神霊感応による不可謬である聖書を正確にその意味を読み取り、信仰に対する確信を持つことができるようになります。

※「聖書のみ」。宗教改革の5つのソラの一つ。すなわち、聖書と同等、聖書を超える権威ある教えはありません。

2. 聖書解釈者が備えておくべきものについて答えてください。

 聖書を解釈するためには、さまざまな資料が助けになります。まず第一に、原文である旧約聖書のヘブライ語、新約聖書のギリシャ語に加えて、各原語の理解を支える辞典等が手元にあると、現代の各国語の翻訳版より一歩、元々の言葉に近づけることができます。第二には、コンコーダンスや引照編集(Treasury of Scripture Knowledgeなど)、解釈集(Matthew Henry’s Commentaryなど)があると聖書内の引用や関連している聖句から文脈的にみることができたり、今まで深く聖書について勉強して来た方々の洞察からみたりすることができます。また、聖書の幾千年の歴史が語られる様々な時代の家庭の組織や政府制度、日常生活の習慣、単位、通貨、地理関係などを理解するための聖書考古学資料や百科事典、地図も役に立ちます。

今現在、日本語から勉強するのに、こういった資料はアナログで現物の本を買わないといけない場合がほとんどですが、英語ではネット上に「http://biblehub.com/」や「https://www.blueletterbible.org/」のような便利なツールができていますので、インターネットの環境と参考になるホームページのリンクさえあれば、すべてが揃います。

3. 教会史上に見られる聖書解釈について諸学派について述べてください。

 教会の約2000年の歴史の中で、いろいろな聖書解釈学派が存在しました。中には、解釈法から産まれた誤解が異端の源となったケースもあり、こういった落ち穴の事例から遠ざけるためには、学派の学びも重要であります。

 ギリシャ系などの比喩的な解釈学派がその一つです。これらの学派は聖書をそのまま真理としない、寓話や神話にすぎない書物としてとらえることが特徴です。ギリシャ系ではプラトンの洞窟の比喩のように、語られる言葉(rhete)の表面的な意味(phanera)よりも、その本当の意味、霊的な意味は裏に秘められた意味(hyponoia)であると信じていました。ギリシャ文化は現在に至るまで世界中大きな影響を及ぼしている中で、キリストの時代に生きたユダヤ人も比喩的に隠れている聖書の意味を探し始めて、「カバラ」やいわゆる「Bible Code」に展開されています。同じように、初代クリスチャンの中でも、新約聖書を比喩としてみたグノーシス主義の異端や、オリゲネスなど、旧約聖書を新約と合わせるように比喩的に解釈しなおそうとしていた教父たちが見受けられます。この比喩的な流れを受け継ぎながら、プロテスタントの影響によりカトリック流解釈はある程度文字通りの解釈に戻ろうとしますが、聖書を教父から受けた伝統の一部として、それらと同等の権威をもつものとしますので、聖書にはほとんど示されないことも正統な真理にしてしまい、ルターなどの宗教改革の神学者が聖書的ではない批判した贖宥状などの習慣が今にも続く状態となっています。

 比喩とは反対に逐語的な解釈学派も旧約聖書のエズラから始め、存在してきました。ユダヤ教の中でも、カライ派などの逐語的な解釈を進める学派は、我々クリスチャンにとっても適応できる解釈学の原則を設定してきました。例を挙げると、言葉は文章で、文章は文脈で解釈すべきです。また、同じテーマの聖句を2つ、3つ比較することによって、みかけの対立を解決することができたり、より分かりやすい聖句を優先したりすることも挙げられます。しかし、このすえに言葉を構成する文字や句読点を個別に解釈しようとするような詳細を強調しすぎてしまって、本当に大事なことを控えた律法学者はイエス様にも叱る対象になりました。

 このユダヤ教の逐語的な解釈から、シリアのアンティオキアにできたクリスチャン学派は、ユダヤ教のいわゆる文字主義にも、アレクサンドリア流の比喩解釈にも落ちず、1500年代の宗教改革の時にまた注目されるようになり、現代のプロテスタントの歴史・文法的解釈法に先祖になりました。その中には、旧約聖書の出来事を歴史的な真実として受け止めるほか、メッシアに関する内容が霊的で歴史的な内容より高位としないで、それぞれ同級で、融合されている真理とされました。同じように、後に出てくる逐語的な学派は地理や歴史の知識により、比喩的な解釈を制御するものとしていました。

 宗教改革の時代には、聖書に対する解釈の革命が教会の革命に先立ちました。それは、ほかの伝統より聖書を優先し、ラテン語のヴルガータより原文のヘブライ語とギリシャ語を優先することとともに、ヒューマニズムからくる哲学的な視点より神様からくる信仰と聖霊の啓示を優先する動きでした。

 このような画期的な順位変換の中で、下記のプロテスタント解釈学の原則が生まれました。

 ① 哲学ではなく聖霊の導きに頼り、ほかの書物とちがう視点から見るべきです

 ② 聖書は最終的な権威を持っていて、教会の権威でさえ、より高い位置を持ちます。

 ③ 原文の逐語的な意味を歴史と文法を配慮して解釈すべきです。また、比喩解釈は拒否すべきです。

 ④ どの信者にでも聖書は明確にわかるのに十分であり、聖書が聖書を解釈するのにも十分です。

 ⑤ 聖書全体はキリストに関する書物であります。

 ⑥ 福音は新しい律法になってはいけないのとともに、律法はなくなるという意味でもありません。

 神学を理解しようとした比喩的と逐語的学派の他に、献身的学派は霊的な生活や信仰を高める目的で聖書を解釈しようとしていました。この流れはピューリタン派、ウェスレー派、クエーカー派などの由来になります。危険性としては比喩的な解釈に落ちいやすい反面、聖書は霊的な食物になる必要があります。

 リベラル解釈法は1800年代に広がり、聖書の権威を人間の論理の下に下げます。聖書の神霊感応により書かれたことと不可謬性を拒否することは、バルト神学が代表する新正統主義と共通点になります。そのほかに現代的な流れの多くは比喩的のみならず、神話と差をつけず、聖書の権威と聖書の無謬をなくしてしまいます。これに関して「もし解釈者が[元文の著者の]世界観をはっきりしないで、近代的世界観から新約聖書を解釈することを強調するのであれば、新約聖書の誤って解釈をするしかありません」と述べてある通りです。

 正しい解釈は聖書の霊感と権威を尊敬したうえ、文法と歴史を理解しなければならないのです。聖書に対し、自分の持っている解釈を押し付けるのではなく、聖書は何を意味するかを、聖書から読み取らなければなりません。

 4. 聖書解釈における基本としての啓示、霊感、建徳について説明してください。

 聖書の「霊感」はプロテスタントの解釈の基礎です。霊感により与えられているので下記の特性も聖書が持っています。

ほかの書物をはるかに超えた道徳的、霊的な面を持っています。人類に対する最大の基準ですが、それをわかるためには聖霊の導きという霊的な資格がひつようになります。これはあるところで、聖書の「権威性」や「関係性」と呼ばれています

また、霊感によって与えているということは、超自然的な面も持っています。書いてある奇跡的な内容は、別の書物なら疑うかもしれないけど、全能の神による歴史的な出来事として受け入れます。奇跡的な内容のみならず、霊感によるものとして、間違いがないこと、聖書の「不可謬性」、「無謬」であることを信じています。

それから、啓示として与えられているので、書かれた言葉は当時の一般語にかかわらず、その意味はほかにない深みがあるのです。私たちは信仰と信頼、祈りと謙遜をもって聖書を解釈していきます。これで言えるのは、聖書を研究すること自体が目的ではなく、その研究を通して神様への愛、隣人への愛という霊的な効果が生まれる手段としなければなりません。

 5. 聖書解釈の原則は文法的、歴史的、神学的解釈と言われますが、そのうち文法的

 文法的歴史的解釈の中、「文法的」とは、原語の解釈をいろいろな面のことを示しています。その中には、いくつかのテーマを取り上げられます。

 第一に言葉の意味を理解することです。ギリシャ語の言葉の多くは複数の語幹からできていて、その構成から、原語のネイティブにとっての意味を理解することができます。たとえば、「教会」と訳されている「ἐκκλησία」は「ἐκ」=(外へ、出る方向)と「καλέω」=(呼ぶ、召される)からできているので、教会は「[世の中から]呼び出される集まり」と理解されたことが分かります。

また、コンコーダンスを用いて、ほかの聖句に出てくるところと比較することによって、その言葉が示す意味の範囲に対する理解が含まります。たとえば、出エジプト記の32章14節に「主は...仰せられたわざわいを思い直された。」、と訳されている「נָחַם」の意味を理解するために比較してみると、詩篇23章4節の「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」というように、同じ言葉に「慰められる」という意味も持っています。

言葉の意味に加えて、その文章の中の使い方、言語学上の文法面にも注目すべきです。ヘブライ語、ギリシャ語とも、文章の言葉のお互いの関係を前置詞のほかに、活用により語形変化を用いて示しています。

聖句を解釈するために文脈も必要不可欠です。文脈は大きく聖書全面になりますが、そのほかに、新約か旧約なのか、当巻の歴史的背景、読んでいる聖句の直接前後の箇所の流れについても配慮しなければなりません。

6. 歴史的解釈(文化的解釈)とはどういうものですか。

  聖書は、現代、日本の読者から遠く、場所も時も文化も離れています。これらの時空と人類学的な距離を詰めるように、著者とその初期読者を理解する必要があります。文化には生活習慣、さまざまな働き方、マナー、道具、制度、組織、政府、地理、社会など幅広く当時の情報も含まります。これらの要素は多種多様な形で著者も初期読者を影響しましたので、私たちも関心を持つべきです。

7. 神学的解釈とはどういうものですか。

  一つのとらえ方として聖書は神様の性質と御声を知るようになり、神様に出会えるために与えられている書物ので、神学的な真理を把握するためのものとも言えます。その神学的な解釈には、注意事項がいくつかあります。

 解釈者は贖われていて、神様からの啓示を求めていることが前提になります。

 逐語的な意味は、非逐語的な内容より優先になり、その非逐語的な内容の範囲を限定します。

 新約聖書を強調し、御子イエスが聖書全体の最高の啓示です。(ヘブル1:2~3「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました... 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」)

 聖書の解釈は神学の教えより先立ったないといけません。神学的な教えはすべて、聖書の下に置かれて、聖書によって証明される必要があります。逆に、聖書の中から確認できない教えについては、また聖書の言葉を超える教えについては、疑うべきです。このためにも、その聖書の証明も、原則に従い正しく適応しないといけません。

8. 旧約の経論と新訳の経論について説明してください。

  ルカ24章25~27節から教えられていることは、旧約で潜んでいる真理は新約で明らかになっています。すなわち、聖書全体はキリストについて、そのキリストの苦しみを通して罪びとの救いの仲介をしてくれたことを表されているのです。旧約に型と影があれば、それはキリストがその真理と存在です。旧約に約束があれば、それはキリストがその中心で、キリストによって「しかり」で「アーメン」です。旧約の儀式も、新約の儀式も、キリストを示し、キリストを表しています。聖書の家系図はキリストにつないで、聖書の年表はキリストの時期を指しています。律法があれば、それはキリストに導くために書かれていて、道徳的なものは正すことを通し、儀式的なものはキリストへの標識です。旧約のイスラエルのメッシアの降臨を待ち望む姿勢を通して、新約の教会はキリストの再臨を待ち望む、あるべき姿勢を学びます。

 9. 型とか予表と呼ばれるものについての解釈を説明してください。

  旧約聖書にキリストを表す「型」や「予表」があることは、新約聖書の中で多くの箇所によってわかります。イエス様自身、「ヨナの印」や「マンナ」が自分の事を表していることについて語ったほか、ルカ24:27には 「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」と書いてあります。ヘブル人への手紙の内容の多くは、このことも明らかにします。

 旧約と新約とは、いかにも関連しているもので、そのつながりが明確になる時、旧約の「型」を特定できます。この「型」については、預言の一種と言えます。型の種類には、人、習慣、組織、出来事、行動、ものなどの例が見受けられます。

 多くの場合、これらのものはある意味の関連性がありながら、詳細がすべてフィットしないこともあります。例えば、「ヨナの印」について、イエス様が3日間墓に葬られる意味を予表していたが、ヨナは神様が自分の意志で逃げようとしていたのに、イエス様は引き離してほしかった状況に自分の意志で進みました。ここから、型の適応について限度があるということも分かり、慎重に用いることに注意が必要です。

 金属や木材の種類、数字、色などは印として聖書の中で用いる箇所は多くあります。しかし、本文が明確に解釈してくれる場合を除いては、型の解釈よりさらに、歴史的、文法的な解釈に努めなければなりません。

 10. 預言の解釈についての諸学派について説明し、預言解釈の諸原則について述べてください。

 カトリックの比喩的な解釈に進みすぎてしまい、聖書に証拠がない教えを見出しています。それと反対に固く逐語的な解釈だけにこだわると神様が語ろうとしている内容が受け取れない場合があります。この中で、預言的な内容の解釈に向けて、いくつかの原則を取り挙げられます。

固有名詞などものを特定する言葉は、慣れている意味にすぐ頼ることせず、一つ一つの言葉の意味を改めて確認しながら解釈すべきです。預言の言葉に詩的、象徴的な内容が多くあり、逐語的な解釈を固く強調する前千年論の経綸主義を信じたとしても、この事実を認めなければなりません。例に、過去にイスラエルを囲まれた国が再建されることは期待しない限り、預言されている「バビロン」はその当時の国民を指さないで、別の意味で解釈したりしないといけません。しかし、逐語的な解釈をガイドレールに用いることは基本となります。この二極のバランスを取り、その内、逐語が型に優先することはポイントになります。

預言と預言者の背景についても、検討する必要があります。預言されるまでの地理や人物、歴史的な経緯を把握しないと正しい解釈は不可能です。預言の特性としては、組織的な構成に整理されていないものがたくさんあります。そのゆえ、距離や時間は近くなったり、遠くなったりすることもあります。

また、預言の中の一句を個別で取らないで、前後関係と預言全体の流れも重要であります。同じように平行している聖句と比較することを通して、新たな角度から見ることができます。

解釈するにあたり、聖句が本当に預言なのか、教えなのかを分けることも大事です。預言であるなら、条件の有り無し、実現済みか未実現か、聖書の中でわかるものと参考資料が必要なものもあります。実現されているものについても、その実現の形によっては、一部未完成な部分がある可能性もあり、一部または全体が実現されていない内容とすれば、ほかの預言的な出来事との関係に敏感にならないといけません。

 11. たとえ話についての解釈を述べてください。

 イエス様のたとえ話は30話も福音書の中で記録されています。たとえ話は応答するものに対して教え、応答しないものに対して真理を隠すためのものだとルカ8:8などの箇所からわかります。日常生活のような、誰でも分かるものを利用して、神学的な真理が伝わるように伝えられていました。この表と裏のある話を解釈する時、その中心的な真理以外に、すべての詳細にまで意味をつけようとする比喩的な解釈に注意すべきです。そのために、4つの還俗が取り上げられました。①どのようにキリストに関係するのか?また、すでに来られて、現在来られていて、これから来られる天の御国とどのように関係するのか?②当時の文化における、語られているシーンについて、研究すべきです。③このたとえ話の一つの中心的な真理はなんでそうか?イエス様の説明に注目しましょう。説明がなければ、文脈や比較対象の参照箇所についても考えましょう。④神学的な教えは、なるべくたとえ話よりはっきり教えられる聖句の上に建て上げるべきです。