旧約釈義

旧約釈義

 

次の聖書箇所からそれぞれ一つを選び、その釈義をしてください。

 

ヨナ書

 

1.背景

 ヨナ書は他の小預言者の書と少し違う点がいくつか挙げられます。まず、中心的な内容は、神様が預言者に与えたメッセージではなく、その与えられた預言者の応答です。また、ユダヤ教の解説を読むと、皮肉的な要素と驚きが多くて、コメディとして知られています。そして、旧約聖書の中ででも新約聖書のような神学が教えられています。罪を告白し悔い改めて、信仰による救い、恵みの立場から書かれているだけではなく、それが異邦人にも述べられるという驚きのメッセージが入っています。紀元前700年前後に書かれたとされていて、今でもヨム・キプルの午後にイスラエルの子供が読んで神様のあわれみを思い起こす伝統が続いています。

 同じ名前の「アミッタイの子ヨナ」は、ヤラボアム王(二世)の時代に預言をしました。(参照 2列王記14:25)

 

2.コメディ(皮肉や驚きの)要素

 

 コメディを分析すると、笑いが取れる要素はいくつか取り挙げられます。この釈義でその内の二つを見ます。①皮肉:期待や常識を覆す状況や行動、②驚き:話を知らない人の初耳の瞬間、期待されなかった出来事の面白さ。残念なことに、面白さを説明すると面白くなくなることはありますので、コメディを分析しても、笑えなくなる可能性があります。

 

 1:1主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った

 

 アミッタイの子(直訳:真実の子)として紹介されています。不可謬な神のみ言葉の中で、信じがたい奇跡的なところのある話(魚の中で三日間、本当に生きれるかどうか、など)で、「真実の子ヨナ」と呼ばれるはこの観点から少し皮肉的かもしれません。

 

1:3しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。

 

 ニネベは現代のイラクの北部のモースル市にあった、アッシリア帝国の首都でした。今でもその史跡はモースル市に残っています。タルシシはニネベとは反対方向の当時の知られた世の果てのスペインにあったとされています。全体の話が分かる人にとっても、神の計画の中にいる人が真反対に逃げようとしても結局、神様の計画していたことに戻るところも皮肉的であります。

 

 1:5それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。

 

 慌てている水夫と比較して、内面的、外面的な嵐に攻め詰まったヨナが熟睡できる驚きは面白いです。

 

 1:6そこで船長は来て、彼に言った、「あなたはどうして眠っているのか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、われわれを顧みて、助けてくださるだろう」。

 

 水夫は不敬虔で罪深い人としたイメージの強いユダヤ人にとって、船長が預言者に祈るようにいうことは皮肉的です。

 

  1:9ヨナは彼らに言った、「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。

 

 この部分に3回(5節、10節、16節)水夫が恐れて、神に心を向けて、助けを求めます。しかし、ヨナは主を恐れるといいながらも、逃げようとしているし、祈らずに熟睡していることが皮肉的です。どちらが本当に神様を恐れているでしょうか。

 

 

1:10そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。

 

 「一体なにを主に対してやったのか?」と聞くけど、聞く前に知っていたと書いてあります。離れてのがれようとしかしていないことを知っている、読者と水夫が一緒に思うところに驚きと皮肉があります。

 

1:14そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。 1:15そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。 1:16そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。

 

 預言者はニネベにいる人が全部滅ぼされてほしいのに、一つの命、自分たちに災害を持ち込んだ人でさえ、その命の尊さが分かる水夫が皮肉的と思います。また、預言者が神のメッセージを宣言しない時でも、託された使命から逃げている時でも、そこで信じなかった人が神様を信じるようになることも皮肉的だと思います。

 

1:17主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。... 2:10主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。... 3:1 時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、3:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。3:3 そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。

 

 

 いきなり大いなる魚に飲まれるヨナについて、世界中のこどもが驚いて面白さを覚えています。また、神の言葉を聞いたヨナが1:3で「すぐに」(立って)にげてしまったのに比べて、2:10にあるように主が命じてすぐに魚が従ったことも皮肉的な比較です。また、「再び」(3:1)ヨナに語りかけられるヨナが「すぐに」(立って; 3:3)行くところの「すぐに」は非常に皮肉的な表現だと思います。

 

3:6このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。 3:7また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。 3:8人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。 3:9あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。

 

 王は動物まで悔い改めさせることを命令する驚きがあります。3:9の言葉は1:6の船長の表現に似ていることも驚きの面白さの一つと思います。

 

4:1ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、 4:2主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。 4:3それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。 4:4主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。4:5そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。

 

 預言者が、相手の応答に喜ぶところはずのに「激しく怒る」こと、また「あなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていた」ことが嫌になるのも驚きで皮肉的だと思います。怒りのあまり、「死ぬ方がまし」だとか、町が滅ぼされるのを期待して待ってみる行動など、また驚きと皮肉の要素は充分あると思います。

また、この4章全体は本当の善悪を考えさせる聖句ですが、ヘブライ語で反対語の良し(good「טוֹב」)と悪し(evil「רוע」)を比較し、そこで驚きを見せます。1節では、たくさんの人が救われたことに対して「非常に不快(רוע)」と思われたに対して、4節で神様が一人が怒りで燃えることは「よい(טוֹב)ことであろうか」と問われます。人間の思う善悪と神の思う善悪のギャップに驚きます。

 

4:6時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。 4:7ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。 4:8やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。 4:9しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。

 

 ヨナの思う「悪」がまた紹介されます。神は「ヨナを暑さの苦痛(רוע)から救うために、とうごまを備えた」と書いてあります。植物に「非常に喜ぶ」が、多くの人間の救いに喜ばない、むしろ死ぬほど「非常に不快と」し怒る預言者のみならず、自分を含めた人類がそうであると納得する思いに対して、驚きと皮肉を超えて悲しくなってきます。

 

4:10主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。 4:11ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

 

 王様が動物を悔い改めさせたことに、ここで神様が「家畜」を含めて惜しむことを示すことが皮肉だと思います。このコメディ全体のオチかのように、その言葉でスパッとヨナ書が閉幕します。

 

3.キリスト教の神学的な内容

 

ア)キリストの型

 

 1コリント3:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています...

 

 私がクリスチャンになってすぐに、恥ずかしいくらい聖書を知っているかのような根拠のない自信を持っていました。ある友達の教会で聖書勉強会を開いた時に、その牧師に言いました。「どこで聞いたか忘れたけど、ある人がイエスがヨナみたいだと言っていた。私はそう思いません。ヨナは神様の計画から逃げていたから、まったく似ていないと思います。」そこで、忍耐と愛をもって、イエスがヨナの印を見せるとおっしゃったのはイエス様自身であると教えられました。そのように、100%詳細までマッチしないかもしれませんが、イエスの生涯を指していると思われる要素をいくつか紹介します。

 

 「ヨナの印」

 マタイ12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。12:39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。12:40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。12:41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

 

 「嵐の中で寝ている姿」

 ヨナ1:4 時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。1:5 それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。

 マタイ8:24 すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。

 

 「くじ引き」

 ヨナ1:7 やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。

 マタイ27:35 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、

 

 「嵐を静める奇跡」

 ヨナ1:15 こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。

 マタイ8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

 

イ)救済論と神の主権、「思い返す神」の疑問?

 

 神様の計画から逃げ出せなかったヨナは、カルヴィン主義の「不可抵抗的恩恵」や「聖徒の堅忍」を表す事例として挙げられることはあります。しかしながら、反対にヨナ書の初めまで自国の預言者として知られても、閉幕の4章の時点では信仰から遠く離れた状態にいることはアルミニウス主義が主張する「相対的保証」、「可抵抗的恩恵」と挙げられます。ヨナ書はカルヴィン主義かアルミニウス主義かのどちらの救済論に対しても、決定的な証拠になりません。

 

3:4ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。

 

 「神の主権」を問う人は、ニネベが滅ぼされなかったところで挙げる疑問は「この預言は実現されたでしょうか?」「ヨナが与えたメッセージは嘘だったでしょうか?」。。。「滅びる」という言葉のヘブライ語は「הָפַך」で、「反対方向に向く」ことが元の意味になります。ニネベは滅びなかったが、repent(反対方向に向く=悔い改める)しましたので、この預言は嘘ではありませんでした。

 

3:10神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

 

 すべてのことを知って、すべてのことを永遠からみて計画を立てている神様は「思い返す」ことができるでしょうか?「生きている神」であることから、この点は矛盾にならないと思います。神様の永遠の視点から、人間の時間感覚とは違う意味の「思い返す」になるではないかと思います。神様は永遠の視点を持っていて、祈りに答えてくださることを、祈るよりも前から決めることができます。