旧約特論
1.箴言とはどういう書物ですか。
箴言は知恵の書物の一つとして存在しています。ここで述べられているのが単なる哲学や道徳ではなく、神の知恵です。そこには知恵ある者と愚かな者の比較を通して、ルールや戒めではなく、恵みによって与えられた賢い生き方の教えです。主を恐れること、すなわち神の主権を認めるところから始め、いかにも主の喜ばれる生き方を分かりやすく、身近な事例を通して説明しています。今日の人にも適用する古代な言葉として、人間の根本的な性質を見極めている事実から、聖霊の霊感を感じます。
2.箴言の中から一つの聖句を取り上げ、その御言葉が自分の人生に与えた力について話してください。
箴言22:29 じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。
神様から与えられた一つとして、言葉の通りの「異言を解き明かす」通訳の賜物をいただいております。使徒の働き2章でそれぞれの人が自分の分かる言葉で神の御業が語られたことに感動しイエスを信じたなどの出来事を信じて日本人に分かる日本語で神の御業を伝えたいという気持ちで二十歳から日本語を勉強し始めて、聖霊の助けによって26歳からその言語能力が一般市場に認められて通訳の仕事を始めました。その後も、神様しか開くことのできない機会が与えられました。ある40年間の歴史と実績を持つ会社を引き継ぐことになりました。最初はその道でも進んで良いかどうかの迷いがありましたが、この箴言で、神様が与えられた通訳の賜物によって、影響力のある人のつながりができるようにすると語られて、会社を引き継ぎました。現在、日本全国の何万人の中小企業の代表者が属する集いの一員となって、発表したりする機会が与えられています。
3.出エジプト記と創世記の関係は、どのようなものですか。
モーセの五書の一つ目と二つ目として、創世記に始まった話の続きが出エジプト記に示されています。創世記の「入る」や「陥る」ものと反対に、出エジプト記は「出る」や「立ち直る」ことが多くあります。それは場所「エジプト」に入る、そして出る、のみならず、罪に陥るに対して贖われて立ち直ることもあります。反対に映す鏡のように創世記のヨセフは一番無力の兄弟が遠い国で奴隷として生活し、イスラエルの民を豊かな国に入れて救うことに対し、モーセは王子として育って、遠い国で族長の義理息子として生活し、イスラエルの民を荒野に出して救うという話になっています。
4.出エジプト記には二つの山があります(重要な事柄)、それは何と何で、どういう意味で重要と言えますか。
使命を受けたホレブ山と、律法が与えられたシナイ山は同じ、「神の山」でした。ホレブ山でモーセが神の呼ぶ声に聴き従い、シナイ山に戻ると生き方を導いてくださる「律法」が与えられたのは、メソディスト派が語る「二つ目の恵みの働き」やペンテコステ派の「聖霊の洗礼」のように、クリスチャンが神様に応答し救いを受ける体験と、聖い生き方に導いて下さる聖霊で満ちる体験のようなものでした。興味深いことに、その二つの山は同じ場所とされていると同様に、クリスチャンのこの二つの体験は同じカルバリーの丘、ゴルゴタの丘、その十字架にて、イエスと出会って受けるものです。
5.出エジプト記に記されていることで、あなたの人生にインパクトを与えた御言葉、もしくは出来事があれば、それを記し、その間のことについて話してください。
宣教師として日本に来た私にとって、何度も、何度も戻るところは、出エジプト記の3章の燃えている柴から名前を呼んで語りかけている神の御声に励まされてきました。その力強い印象的なイメージ、燃え尽きない炎から、辞めようと思った時に希望が湧きあがります。モーセと同様に言い訳をしたり、自分には課題があるのにと言ったりした末に、それでも私を用いてくださる恵み、またモーセのように最終的に正直にただやりたくない、どうか別の人を送ってと言い張っていた自分に、一人ではないようにチームで使命を成し遂げられるようにしてくださる神の恵みに、ただただ驚きます。その燃え尽きをしない柴のイメージは、私の心と魂に焼き付いています。
6.箴言、出エジプト記以外で、旧約聖書中、あなたの人生にインパクトを与えた御言葉、もしくは出来事があれば、それを記し、その間の事について話してください。
哀歌 3:55-58
「主よ。私は深い穴から御名を呼びました。
あなたは私の声を聞かれました。救いを求める私の叫びに耳を閉じないでください。
私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな。』と仰せられました。
主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました。
私の次女は遺伝的な病気があります。その病気は今の医療技術で治すことができない、日本全国に約15人の患者しかいない、非常に重い慢性的なものです。レマ(Rhema)ちゃんが4歳ぐらいの時に診断された時、寿命が長くて20歳までと病院の先生に言われました。それまでに、生きている間ずっと、肺の中にタンが発生し続けて、毎日1カップぐらい咳して吐き出しながら、肺炎と体中の熱、酸素が足りなくて頭痛と疲れなど、辛い辛い毎日です。一週間ごと入院退院のサイクルに入り、妻が付き添いで病院に、私と元気な長女が家に、家庭と信仰を砕く病気と闇の気持ちとの戦いが一週間から何週間、一か月から何か月、一年間から何年間に伸びていきました。その中で、色々な御言葉が励ましにもなったが、特にこの哀歌の祈りがその一つでした。すべてを見てご存知の神様から、「恐れるな」と仰せられる、その言葉から、今日だけ、先が見えなくても、後一歩でいいから、進む勇気が与えられました。魂の訴えを聞いてくださって、それを弁護し、贖ってくださる主がいるので、この戦いをゆだねることができるようになりました。
現在は、入院退院のサイクルの長い長い8年間から解放されています。まだ完全には治っていません。主の恵みによって症状が少し楽になっています。完全に癒すことができる主に頼り続けています。