聖書神学

聖書神学

1、旧約聖書で使われている「シェオール」の用法について説明してください。

 

シェオール(ギリシャ語:ハデス)は訳し方は様々(墓、穴など)ですが、良い人も悪い人も、皆が死んだら行く場所とされている中間的な状態ですが、最終の状態ではありません。この第一の死の場所から復活されて裁かれ、イエスを信じる人が新しい天地で永遠の命に生きて、信じないものにはゲヘナにて第二の死を受け、永遠に滅びます。

 

2、セカンドチャンスを主張する人々の論拠として、聖句を8つ提出していますが、(ルツ2:20、エレミヤ18:8、ヨハネ5:25、28、1ペテロ3:18-4:16、ピリピ2:10-11、黙示録5:13、黙示録20:11-15、ローマ14:9)、これらは本当にセカンドチャンスを裏付けるものでしょうか。裏付けのないものであるなら、そのことを論証してください。

 

ルツ2:20 ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」

日本語の訳(新改訳、新共同訳、口語訳)は上記のように、主が死んだものに恵みを与えると書かれていますが、ヘブル語だと生きている人と死んでいる人に対してよくするが「主」か「その方(ボアズ)」かがあいまいで、多くの英語訳は「生きている人に対しても、死んでいる人に対しても良くするボアズを主が祝福するように」というように訳しています。また、「御恵み」は、具体的なセカンドチャンスを示すとは言いにくいと思います。

 

エレミヤ 18:8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

この悔い改めは死んでからの悔い改めをさしていると思いません。

 

ヨハネ5:25~29 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

だれも第一の死、そして第一の復活を経験します。ここで取り上げられているのがその第一の復活です。しかし、その時に裁かれて、イエスを信じないものにはセカンドチャンスではなく、セカンドデス(第二の死)を受けます。(黙示録20:11~15)

 

1ペテロ3:18-4:16 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。

「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」とありますが、この「捕らわれの霊」はシェオールやハデスにいたと書いていなくて、生きている人間が罪に捕らわれていることを指しているとも言えます。

また「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」こちらについても、福音が述べ伝えられたタイミングは死んでからに限らず、今は死んでいるが生きていた間に述べ伝えられたというようにも読めます。

この聖句は明確な証拠になりません。

 

ピリピ2:10-11 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

イエスキリストを主と告白するだけで救われません。汚れた霊も神の子であることを宣言しました。主として受け入れる必要があります。主と言いながら従わないものは永遠に滅びることになります。

 

黙示録5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

ピリピに対する、上記の説明と同じ類のものです。賛美するから救われるものではありません。また「地の下」は被造物の一部をさしていると思われて、セカンドチャンスとは関係がありません。

 

黙示録20:11-15 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

第一の復活の時点では第二の死に対する判決がすでに決まっていて、いのちの書、もしくは別の書物に記載されています。

 

ローマ14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

キリストがすべての主権をもっていることは間違いありません。その主権の下にいることにかかわらず反逆する人、主権の下にいるけどその事実を受け入れない人は救われません。

 

 

3、ラザロと金持ちのたとえ話は、セカンドチャンスを主張する人々にとって、有利ですか、それとも不利ですか。

 

不利と思います。実話であることが明確でもないし、「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」と書いてあるからです。中間的な状態のハデスにいるとその苦しみから、慰めに移ることがないということです。

 

4、あなたはセカンドチャンスを信じますか。信じるならその論拠を、信じないのなら、その論拠を示してください。

 

死んだ後のセカンドチャンスを信じません。

聖書が第一の死の後、第一の復活までに、中間的なシェオールで救いを受けるチャンスがあることを示していないと思います。また第一の復活の時点では、すでにいのちの書か、その別の書物かに書かれているから、第一復活から裁かれるまでには救いのチャンスがないと思います。

セカンドチャンスをはっきりと伝える聖書箇所が存在しないと思います。