詩書研究
1 詩篇第一篇を解説し、日々の信仰生活に関して新しく教えられたことを記述してください。
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
「幸いなことよ…その人」(אַ֥שְֽׁרֵי־הָאִ֗ישׁ אֲשֶׁ֤ר) 「幸い」の言葉に「まっすぐに」「導かれ」「前進させらる」という意味が含まれています。それと比べて、「悪者のはかりごと」、「罪人の道」、「あざける者の座」は曲がっていて、神様から遠ざかるものです。
「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった」ここの「悪者」は法律的な犯罪者で、「罪人」は道徳的な罪悪感を覚える人です。人間的に感がると重いものから軽いものの順で出てくるのは逆にあざける者の側に座るだけでも、それは悪者のはかりごとまでに展開することを示しています。例えば、犯罪を起こすような計画で走らなくても、また道徳的な道に歩んでいなくても、あざける人の「座」(ヒ:立場・住まい)に居ることはないか問われます。私は人に対してイエス様のように、いつも謙遜な心で尊敬し、行動もって愛と感謝を示し、可能性を信じているでしょうか。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
神様のみ言葉の習慣「昼も夜も…口ずさむ」前に、まず主のおしえを「喜び」としているでしょうか。この生活のリズムは義務から始まるものであれば、何の益にもなりません。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
「水路のそばに植わった木」…比較 (エレミヤ17:8、エゼキエル47:12、黙示録22:2) 天国を描いています。
絶えず人に癒しとリフレッシュを与える存在になれますように祈ります。そのために深く、生きている水の川に届くまで根を下ろすようにゆっくり献身的に神様と時間を過ごし求め続けます。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。
正しい人の永遠に残る道を比較対象として、悪者の滅びる行方に対して注意されています。これは吹き飛ばせれる枯葉のように消え去っていくイメージで表しています。
2 詩篇第三篇を解説し、祈りについて新しく教えられたことを記述してください。
【ダビデの詩篇。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。】
関係の近い人から裏切られた痛みも、主の前にもっていきます。
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ
また、否定されていると感じる時、それを神様にもっていくべきです。
3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ
すると、自分は自分で守る必要がありません。主は聞いてくださっています。状況に囲まれ責められているように見えても、主は私を囲み守ってくださいます。
3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
不安や心配で眠れない夜に覚えるべきことは、イエス様に完全な平安があります。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
(参照3~4節のコメント)
3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
主は、敵の歯、私を傷つけるものは打ち砕けれます。
3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ
この詩篇に三回も「救い」、ヘブル語では「ישוע」、すなわちイエス様の名前があります。ヘブル語で救いを求める時、必ずイエス様の名前の語源を口にします。私も、自分の力に頼らないでこのように、いつも、すべての状況において、イエス様の救いと助けを求める習慣を身に着けれるように祈ります。