01:聖書解釈学 BibleHermeneutics

5329.jpg

参考資料:https://www.amazon.co.jp/gp/product/B009XE6R1K/ref=oh_aui_d_detailpage_o00_?ie=UTF8&psc=1

1. 聖書解釈学とはどういう学問ですか?

「Hermeneutics」(聖書解釈学)とは解釈の科学です。クリスチャンにとって、聖書の言葉を正しく理解することは聖なる務めです。宗教改革以来プロテスタントはSola Scriptura*を掲げて来たゆえに、正しい信仰とは何かを検討する中で、聖書が最終的な判断基準を持つということは、聖書の解釈がいかにも重要な意味を持ちます。使徒17章10~12節に紹介されるべレアのユダヤ人に見習い、私たちはメッセージや教えのみならず、さまざまな信条や伝統に伝わる内容でさえも、そのまま素直に受けとるのではなく、誤りがないか、聖書の通りなのかを調べることが、神様から与えられている義務です。「解釈」の仕方、そのものを学ぶことによって、自分の考えていることは人間によるものではなく、神霊感応による不可謬である聖書を正確にその意味を読み取り、信仰に対する確信を持つことができるようになります。

※「聖書のみ」。宗教改革の5つのソラの一つ。すなわち、聖書と同等、聖書を超える権威ある教えはありません。

2. 聖書解釈者が備えておくべきものについて答えてください。

 聖書を解釈するためには、さまざまな資料が助けになります。まず第一に、原文である旧約聖書のヘブライ語、新約聖書のギリシャ語に加えて、各原語の理解を支える辞典等が手元にあると、現代の各国語の翻訳版より一歩、元々の言葉に近づけることができます。第二には、コンコーダンスや引照編集(Treasury of Scripture Knowledgeなど)、解釈集(Matthew Henry’s Commentaryなど)があると聖書内の引用や関連している聖句から文脈的にみることができたり、今まで深く聖書について勉強して来た方々の洞察からみたりすることができます。また、聖書の幾千年の歴史が語られる様々な時代の家庭の組織や政府制度、日常生活の習慣、単位、通貨、地理関係などを理解するための聖書考古学資料や百科事典、地図も役に立ちます。

今現在、日本語から勉強するのに、こういった資料はアナログで現物の本を買わないといけない場合がほとんどですが、英語ではネット上に「http://biblehub.com/」や「https://www.blueletterbible.org/」のような便利なツールができていますので、インターネットの環境と参考になるホームページのリンクさえあれば、すべてが揃います。

3. 教会史上に見られる聖書解釈について諸学派について述べてください。

 教会の約2000年の歴史の中で、いろいろな聖書解釈学派が存在しました。中には、解釈法から産まれた誤解が異端の源となったケースもあり、こういった落ち穴の事例から遠ざけるためには、学派の学びも重要であります。

 ギリシャ系などの比喩的な解釈学派がその一つです。これらの学派は聖書をそのまま真理としない、寓話や神話にすぎない書物としてとらえることが特徴です。ギリシャ系ではプラトンの洞窟の比喩のように、語られる言葉(rhete)の表面的な意味(phanera)よりも、その本当の意味、霊的な意味は裏に秘められた意味(hyponoia)であると信じていました。ギリシャ文化は現在に至るまで世界中大きな影響を及ぼしている中で、キリストの時代に生きたユダヤ人も比喩的に隠れている聖書の意味を探し始めて、「カバラ」やいわゆる「Bible Code」に展開されています。同じように、初代クリスチャンの中でも、新約聖書を比喩としてみたグノーシス主義の異端や、オリゲネスなど、旧約聖書を新約と合わせるように比喩的に解釈しなおそうとしていた教父たちが見受けられます。この比喩的な流れを受け継ぎながら、プロテスタントの影響によりカトリック流解釈はある程度文字通りの解釈に戻ろうとしますが、聖書を教父から受けた伝統の一部として、それらと同等の権威をもつものとしますので、聖書にはほとんど示されないことも正統な真理にしてしまい、ルターなどの宗教改革の神学者が聖書的ではない批判した贖宥状などの習慣が今にも続く状態となっています。

 比喩とは反対に逐語的な解釈学派も旧約聖書のエズラから始め、存在してきました。ユダヤ教の中でも、カライ派などの逐語的な解釈を進める学派は、我々クリスチャンにとっても適応できる解釈学の原則を設定してきました。例を挙げると、言葉は文章で、文章は文脈で解釈すべきです。また、同じテーマの聖句を2つ、3つ比較することによって、みかけの対立を解決することができたり、より分かりやすい聖句を優先したりすることも挙げられます。しかし、このすえに言葉を構成する文字や句読点を個別に解釈しようとするような詳細を強調しすぎてしまって、本当に大事なことを控えた律法学者はイエス様にも叱る対象になりました。

 このユダヤ教の逐語的な解釈から、シリアのアンティオキアにできたクリスチャン学派は、ユダヤ教のいわゆる文字主義にも、アレクサンドリア流の比喩解釈にも落ちず、1500年代の宗教改革の時にまた注目されるようになり、現代のプロテスタントの歴史・文法的解釈法に先祖になりました。その中には、旧約聖書の出来事を歴史的な真実として受け止めるほか、メッシアに関する内容が霊的で歴史的な内容より高位としないで、それぞれ同級で、融合されている真理とされました。同じように、後に出てくる逐語的な学派は地理や歴史の知識により、比喩的な解釈を制御するものとしていました。

 宗教改革の時代には、聖書に対する解釈の革命が教会の革命に先立ちました。それは、ほかの伝統より聖書を優先し、ラテン語のヴルガータより原文のヘブライ語とギリシャ語を優先することとともに、ヒューマニズムからくる哲学的な視点より神様からくる信仰と聖霊の啓示を優先する動きでした。

 このような画期的な順位変換の中で、下記のプロテスタント解釈学の原則が生まれました。

 ① 哲学ではなく聖霊の導きに頼り、ほかの書物とちがう視点から見るべきです

 ② 聖書は最終的な権威を持っていて、教会の権威でさえ、より高い位置を持ちます。

 ③ 原文の逐語的な意味を歴史と文法を配慮して解釈すべきです。また、比喩解釈は拒否すべきです。

 ④ どの信者にでも聖書は明確にわかるのに十分であり、聖書が聖書を解釈するのにも十分です。

 ⑤ 聖書全体はキリストに関する書物であります。

 ⑥ 福音は新しい律法になってはいけないのとともに、律法はなくなるという意味でもありません。

 神学を理解しようとした比喩的と逐語的学派の他に、献身的学派は霊的な生活や信仰を高める目的で聖書を解釈しようとしていました。この流れはピューリタン派、ウェスレー派、クエーカー派などの由来になります。危険性としては比喩的な解釈に落ちいやすい反面、聖書は霊的な食物になる必要があります。

 リベラル解釈法は1800年代に広がり、聖書の権威を人間の論理の下に下げます。聖書の神霊感応により書かれたことと不可謬性を拒否することは、バルト神学が代表する新正統主義と共通点になります。そのほかに現代的な流れの多くは比喩的のみならず、神話と差をつけず、聖書の権威と聖書の無謬をなくしてしまいます。これに関して「もし解釈者が[元文の著者の]世界観をはっきりしないで、近代的世界観から新約聖書を解釈することを強調するのであれば、新約聖書の誤って解釈をするしかありません」と述べてある通りです。

 正しい解釈は聖書の霊感と権威を尊敬したうえ、文法と歴史を理解しなければならないのです。聖書に対し、自分の持っている解釈を押し付けるのではなく、聖書は何を意味するかを、聖書から読み取らなければなりません。

 4. 聖書解釈における基本としての啓示、霊感、建徳について説明してください。

 聖書の「霊感」はプロテスタントの解釈の基礎です。霊感により与えられているので下記の特性も聖書が持っています。

ほかの書物をはるかに超えた道徳的、霊的な面を持っています。人類に対する最大の基準ですが、それをわかるためには聖霊の導きという霊的な資格がひつようになります。これはあるところで、聖書の「権威性」や「関係性」と呼ばれています

また、霊感によって与えているということは、超自然的な面も持っています。書いてある奇跡的な内容は、別の書物なら疑うかもしれないけど、全能の神による歴史的な出来事として受け入れます。奇跡的な内容のみならず、霊感によるものとして、間違いがないこと、聖書の「不可謬性」、「無謬」であることを信じています。

それから、啓示として与えられているので、書かれた言葉は当時の一般語にかかわらず、その意味はほかにない深みがあるのです。私たちは信仰と信頼、祈りと謙遜をもって聖書を解釈していきます。これで言えるのは、聖書を研究すること自体が目的ではなく、その研究を通して神様への愛、隣人への愛という霊的な効果が生まれる手段としなければなりません。

 5. 聖書解釈の原則は文法的、歴史的、神学的解釈と言われますが、そのうち文法的

 文法的歴史的解釈の中、「文法的」とは、原語の解釈をいろいろな面のことを示しています。その中には、いくつかのテーマを取り上げられます。

 第一に言葉の意味を理解することです。ギリシャ語の言葉の多くは複数の語幹からできていて、その構成から、原語のネイティブにとっての意味を理解することができます。たとえば、「教会」と訳されている「ἐκκλησία」は「ἐκ」=(外へ、出る方向)と「καλέω」=(呼ぶ、召される)からできているので、教会は「[世の中から]呼び出される集まり」と理解されたことが分かります。

また、コンコーダンスを用いて、ほかの聖句に出てくるところと比較することによって、その言葉が示す意味の範囲に対する理解が含まります。たとえば、出エジプト記の32章14節に「主は...仰せられたわざわいを思い直された。」、と訳されている「נָחַם」の意味を理解するために比較してみると、詩篇23章4節の「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」というように、同じ言葉に「慰められる」という意味も持っています。

言葉の意味に加えて、その文章の中の使い方、言語学上の文法面にも注目すべきです。ヘブライ語、ギリシャ語とも、文章の言葉のお互いの関係を前置詞のほかに、活用により語形変化を用いて示しています。

聖句を解釈するために文脈も必要不可欠です。文脈は大きく聖書全面になりますが、そのほかに、新約か旧約なのか、当巻の歴史的背景、読んでいる聖句の直接前後の箇所の流れについても配慮しなければなりません。

6. 歴史的解釈(文化的解釈)とはどういうものですか。

  聖書は、現代、日本の読者から遠く、場所も時も文化も離れています。これらの時空と人類学的な距離を詰めるように、著者とその初期読者を理解する必要があります。文化には生活習慣、さまざまな働き方、マナー、道具、制度、組織、政府、地理、社会など幅広く当時の情報も含まります。これらの要素は多種多様な形で著者も初期読者を影響しましたので、私たちも関心を持つべきです。

7. 神学的解釈とはどういうものですか。

  一つのとらえ方として聖書は神様の性質と御声を知るようになり、神様に出会えるために与えられている書物ので、神学的な真理を把握するためのものとも言えます。その神学的な解釈には、注意事項がいくつかあります。

 解釈者は贖われていて、神様からの啓示を求めていることが前提になります。

 逐語的な意味は、非逐語的な内容より優先になり、その非逐語的な内容の範囲を限定します。

 新約聖書を強調し、御子イエスが聖書全体の最高の啓示です。(ヘブル1:2~3「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました... 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」)

 聖書の解釈は神学の教えより先立ったないといけません。神学的な教えはすべて、聖書の下に置かれて、聖書によって証明される必要があります。逆に、聖書の中から確認できない教えについては、また聖書の言葉を超える教えについては、疑うべきです。このためにも、その聖書の証明も、原則に従い正しく適応しないといけません。

8. 旧約の経論と新訳の経論について説明してください。

  ルカ24章25~27節から教えられていることは、旧約で潜んでいる真理は新約で明らかになっています。すなわち、聖書全体はキリストについて、そのキリストの苦しみを通して罪びとの救いの仲介をしてくれたことを表されているのです。旧約に型と影があれば、それはキリストがその真理と存在です。旧約に約束があれば、それはキリストがその中心で、キリストによって「しかり」で「アーメン」です。旧約の儀式も、新約の儀式も、キリストを示し、キリストを表しています。聖書の家系図はキリストにつないで、聖書の年表はキリストの時期を指しています。律法があれば、それはキリストに導くために書かれていて、道徳的なものは正すことを通し、儀式的なものはキリストへの標識です。旧約のイスラエルのメッシアの降臨を待ち望む姿勢を通して、新約の教会はキリストの再臨を待ち望む、あるべき姿勢を学びます。

 9. 型とか予表と呼ばれるものについての解釈を説明してください。

  旧約聖書にキリストを表す「型」や「予表」があることは、新約聖書の中で多くの箇所によってわかります。イエス様自身、「ヨナの印」や「マンナ」が自分の事を表していることについて語ったほか、ルカ24:27には 「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」と書いてあります。ヘブル人への手紙の内容の多くは、このことも明らかにします。

 旧約と新約とは、いかにも関連しているもので、そのつながりが明確になる時、旧約の「型」を特定できます。この「型」については、預言の一種と言えます。型の種類には、人、習慣、組織、出来事、行動、ものなどの例が見受けられます。

 多くの場合、これらのものはある意味の関連性がありながら、詳細がすべてフィットしないこともあります。例えば、「ヨナの印」について、イエス様が3日間墓に葬られる意味を予表していたが、ヨナは神様が自分の意志で逃げようとしていたのに、イエス様は引き離してほしかった状況に自分の意志で進みました。ここから、型の適応について限度があるということも分かり、慎重に用いることに注意が必要です。

 金属や木材の種類、数字、色などは印として聖書の中で用いる箇所は多くあります。しかし、本文が明確に解釈してくれる場合を除いては、型の解釈よりさらに、歴史的、文法的な解釈に努めなければなりません。

 10. 預言の解釈についての諸学派について説明し、預言解釈の諸原則について述べてください。

 カトリックの比喩的な解釈に進みすぎてしまい、聖書に証拠がない教えを見出しています。それと反対に固く逐語的な解釈だけにこだわると神様が語ろうとしている内容が受け取れない場合があります。この中で、預言的な内容の解釈に向けて、いくつかの原則を取り挙げられます。

固有名詞などものを特定する言葉は、慣れている意味にすぐ頼ることせず、一つ一つの言葉の意味を改めて確認しながら解釈すべきです。預言の言葉に詩的、象徴的な内容が多くあり、逐語的な解釈を固く強調する前千年論の経綸主義を信じたとしても、この事実を認めなければなりません。例に、過去にイスラエルを囲まれた国が再建されることは期待しない限り、預言されている「バビロン」はその当時の国民を指さないで、別の意味で解釈したりしないといけません。しかし、逐語的な解釈をガイドレールに用いることは基本となります。この二極のバランスを取り、その内、逐語が型に優先することはポイントになります。

預言と預言者の背景についても、検討する必要があります。預言されるまでの地理や人物、歴史的な経緯を把握しないと正しい解釈は不可能です。預言の特性としては、組織的な構成に整理されていないものがたくさんあります。そのゆえ、距離や時間は近くなったり、遠くなったりすることもあります。

また、預言の中の一句を個別で取らないで、前後関係と預言全体の流れも重要であります。同じように平行している聖句と比較することを通して、新たな角度から見ることができます。

解釈するにあたり、聖句が本当に預言なのか、教えなのかを分けることも大事です。預言であるなら、条件の有り無し、実現済みか未実現か、聖書の中でわかるものと参考資料が必要なものもあります。実現されているものについても、その実現の形によっては、一部未完成な部分がある可能性もあり、一部または全体が実現されていない内容とすれば、ほかの預言的な出来事との関係に敏感にならないといけません。

 11. たとえ話についての解釈を述べてください。

 イエス様のたとえ話は30話も福音書の中で記録されています。たとえ話は応答するものに対して教え、応答しないものに対して真理を隠すためのものだとルカ8:8などの箇所からわかります。日常生活のような、誰でも分かるものを利用して、神学的な真理が伝わるように伝えられていました。この表と裏のある話を解釈する時、その中心的な真理以外に、すべての詳細にまで意味をつけようとする比喩的な解釈に注意すべきです。そのために、4つの還俗が取り上げられました。①どのようにキリストに関係するのか?また、すでに来られて、現在来られていて、これから来られる天の御国とどのように関係するのか?②当時の文化における、語られているシーンについて、研究すべきです。③このたとえ話の一つの中心的な真理はなんでそうか?イエス様の説明に注目しましょう。説明がなければ、文脈や比較対象の参照箇所についても考えましょう。④神学的な教えは、なるべくたとえ話よりはっきり教えられる聖句の上に建て上げるべきです。