補足: 「聖典」について

ポイント① 聖書は霊感によるもの

神の御言葉 「霊感」

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

 ーー2テモテ3:14-17

また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

—2ペテロ 1:19-21

しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。

—ミカ 3:8

これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。高くあげられた者、ヤコブの神に油そそがれた者の告げたことば。イスラエルの麗しい歌。「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある

—2サムエル 23:1-2

霊感の意味

θεόπνευστος セオプニュストス Theo (神) + Pneustos (息吹き)。究極的に聖書の著者は神様です!

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新約聖書と旧約聖書が今日の形に出来上がるまでの工程はそれぞれ違います。見てみましょう。

聖書が語る旧約聖書の書き方と編集

さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」…

主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」

—出エジプト 17:8-9, 14

そこでモーセは来て、主のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「主の仰せられたことは、みな行ないます。」それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。

—出エジプト24:3-4

今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。

モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。

モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。

—申命記31:19,22,24-26

それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。

—ヨシュア 8:30-35

しかし、士師記時代から、ヤハウェに忠実だった人が少数になった。

ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。

—士師記2:6-10

その忠実な残った信仰者は伝達された内容を時代とともにまとめて編集しました。

これは、「アダムの歴史の記録」である。 — 創世記5:1 *「記録」は直訳「巻物」

「ヤシャルの書」 — ヨシュア10:13, 2サムエル1:18

「主の戦いの書」 — 民数記21:14

「イスラエルの王たちの年代記」 — 1列王記 14:19など

「王たちの書の注解」 — 2歴代誌24:27

「次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである。」 — 箴言 25:1

「エッサイの子ダビデの祈りは終わった。」 — 詩篇72:20

などなど

ホセア、ゼカリヤなどの時代(紀元前400年代)に今の旧約聖書が今の形となって、そのヘブライ語が死海文書(紀元前200~0年代)の中でも残されています。その内容は当時の国際共通言語であったギリシャ語に訳されました(七十人訳;紀元前200年代の半ば)。

そして、イエス様は旧約聖書の3区分にあたるTNK(タナック=トーラー(モーセ五書)、ナビーム(預言者)、ケットゥビーム(諸書))を聖典としていました。

さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

— ルカ 24:44

トーラーの最後の節+ナビームの最初の節は、モーセのような預言者が立ち上がり、ヨシュアのような救い主はみ言葉を思い起こし、約束に導いてくれる。ナビームの最後の節+ケットゥビームの最初の節は、エリヤのような預言者が立ち上がり、ダビデのような救い主はみ言葉を思い起こし約束に導いてくださる。申命記 34:10-12、ヨシュア 1:1-9。マラキ4:4-6、詩篇1篇と2篇。旧約聖書の最終編集者たちはイエスが来る希望を持っていました。


新約聖書はいつ書かれた?だれが書いた?

著者

  • マタイ マタイの福音書

  • マルコ マルコの福音書(ペテロ)

  • ルカ ルカの福音書、使徒の働き、ヘブル?

  • ヨハネ ヨハネの福音書、1ヨハネ、2ヨハネ、3ヨハネ、黙示録?

  • パウロ ローマ、1コリント、2コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、1テサロニケ、2テサロニケ、1テモテ、2テモテ、テトス、ピレモン、ヘブル?

  • ヤコブ ヤコブ

  • ペテロ マルコの福音書?、1ペテロ、2ペテロ

  • ユダ ユダ

※ マルコの福音書 ペテロが教えたこと、マルコが忠実に書き残したとされています。それを言っていた教父たちはパピアス、イレナエウス、ユスティノス、クレメンスなどあります。

※ ヘブル パウロ的神学、ギリシャ語の表現はルカ的。パウロがローマにいた時の教えをルカが書き残したのでしょうか?

※ 黙示録 福音書を書いたヨハネと同一人物かが問われるのですが、私はそうだと思います。マタイ、マルコ、ルカのオリーブ山の講話をヨハネは別の書物に分けているのかな?

※ パウロの教会に対する手紙と、弟子に対する手紙の表現の仕方が違うことから、リベラル神学者は別の人がパウロと名のって書かれたではないかと言いますが、読者の相手の違い、場面の違いによっては誰もが違う表現するので、パウロが全部書いたことは疑わなくてもいいと思います。


著作年

この27巻はローマ=ユダヤ戦争(67~70)年について、また神殿の破壊(70年)のどちらについても、預言はするが明記はしないことから、70年までにできたと思われます。

  • Before Jerusalem Fell 特に黙示録が70年の前にかかれた事を証明します。

  • Redating the New Testament

    新約聖書が47~68年の間に書き終えた学術的な説明。神学的にリベラル的あやまりもあるが、書かれた時代を表明するにあたっては非常に興味深い。結論を下記の表にまとめてある。その中に外典の教父の書物である、ディダケー、第1クレメンスの手紙、バルナバスの手紙、ヘルマスの牧者もいつ書かれたかが書いてあるので、参考までに。(外典・内典において、これらの正統的なものが外典であることが、異端的であるトーマスなどがなおさら外典であることの話につなげやすい)また、著者についてもこの本によると、伝統的な著者は絶対ないと言い切ることができないことを学術的に証明します。

マタイ 45~59
マルコ 42~45
ルカ  59
ヨハネ 60~70
使徒  62
ローマ 56・57の冬
1コリント 56前半
2コリント 56後半
ガラテア 47~52
エペソ  57~59
ピリピ  57~59
コロサイ 57~59
1テサロニケ 50~52
2テサロニケ 50~52
1テモテ  63か64
2テモテ  64~68
テトス   63か64
ピレモン  57~59
ヘブル   50~70
ヤコブ   62より前
1ペテロ  60~69
2ペテロ  60~69
1ヨハネ 60~100
2ヨハネ 60~100
3ヨハネ 100より前
ユダ   96より前
黙示録  68~70

ポイント② 聖書は固定聖典になっています。

聖典の範囲はいつ、だれが決めた?

上記のルカ24:44から分かることは旧約聖書はすでに聖典として受け入れられていたことは、新約聖書の中でもわかります。さらに新約聖書の中でも、ペテロはパウロの手紙を聖典として受けていたことが分かります。

そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

— 2ペテロ3:14-16

同じようにパウロが1テモテ5:17-18にルカの福音書10:7を引用します。使徒たちはお互いに書いたことを聖書として認め合っています。だから、聖典は人が決めたのではなく、信仰者たちが認めていたものです。300年代のアタナシオスやニカイア会議に決めたという説は広く主張されますが、それよりずっと前にオリゲネス(185年ごろ~254年ごろ)は「ヨシュア記講話」に新約聖書についてこう言っています。

Matthew first sounded the priestly trumpet in his Gospel; Mark also; Luke and John each played their own priestly trumpets. Even Peter cries out with trumpets in two of his epistles; also James and Jude. In addition, John also sounds the trumpet through his epistles, and Luke, as he describes the Acts of the Apostles. And now that last one comes, the one who said, ‘I think God displays us apostles last’ [1 Cor 4:9], and in fourteen of his epistles, thundering with trumpets, he casts down the walls of Jericho and all the devices of idolatry and dogmas of philosophers, all the way to the foundations.

— オリゲネス『ヨシュア記講話』

パウロの手紙を14と数えるということはオリゲネスはパウロがヘブルを書いたとしています。ヨハネの手紙の数が書かれていないのですが、1~3ヨハネと黙示録で考えるなら、新約聖書の全部を今日と同じ27巻のリストになっています。

学術的な証明にならないのですが、一つ霊的な印

燭台(メノーラー)

燭台(メノーラー)

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

ー詩篇119:105

純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付ける。一本の支柱には三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付け、もう一本の支柱にも三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。燭台から分かれて出ている六本の支柱を同じように作る。燭台の主柱には四つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。節は、支柱が対になって出ている所に一つ、その次に支柱が対になって出ている所に一つ、またその次に支柱が対になって出ている所に一つと、燭台の主柱から出ている六本の支柱の付け根の所に作る。これらの節と支柱は主柱と一体でなければならず、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りとする。次に、七個のともし火皿を作り、それを上に載せて光が前方に届くようにする。また、芯切り鋏と火皿を純金で作る。燭台とこれらすべての祭具とを重さ一キカルの純金で作る。あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい。

ー出エジプト25:31-40

右の3本の支柱と中の支柱にある装飾物は

 3本
×3アーモンド
×3装飾物(萼と節と花弁)
+
 1本
×4アーモンド
×3装飾物(萼と節と花弁)
=39装飾物、旧約聖書の巻と同じ数です。

また左の3本にある装飾物は3x3x3=27 新約聖書の巻と同じ数です。

全部合わせてメノーラーは66装飾物があり、聖書の巻の数と同じ数字です。

外典について、聖典に含まれなかったものは何?何でこのものも聖書じゃない?

外典の種類はいくつかあります。

  • トーマスの福音書など使徒の名に乗って、勝手に書かれた「偽書」

  • 旧約と新約の間の400年間にかかれたユダヤ人の歴史を語るマカバイ書など(カトリックの「二次聖典」)

  • 聖書が引用する神話的な物語(1エノクなど)

  • 教父たちの手紙(1クレメンスなど)

  • 新約時代の神話的な物語(ヘルマスの牧者など)

  • 異端(特にグノーシス派)の資料

など

これらの資料は信仰者に聖典として認めなかったし、現在に残るものを仮に読んでみても、聖書との差が明らかです。

「固定聖典」の意味

固定聖典とは、聖書は完成されていることを意味します。新しい聖書の書は来ない、今あるものは再構成されたり、足したりすることはありません。原文においては神様がお与えになった御言葉を充分です。

ポイント③ 聖書は正確に今日に至って伝達されました。

旧約聖書の主な写本

  • 死海文書

  • アレッポ写本(作成930年、発見1947年)アレッポ写本公式ホームページ、一部損失

  • レニングラード写本(作成1008年、1863年より博物館に保管)もっとも古い全体、電子版レニングラード写本

  • 七十人訳 ギリシャ語に訳された(紀元前250年ごろ)七十人訳の写本は紀元前のものも残っています。

*反ユダヤ主義の迫害により、ヘブライ語の1000年より古いものは多く失っていますが、死海文書や七十人訳、ユダヤ教の古い注釈文書などを用いて、レニングラード写本が忠実に伝達されたことが証明できます。

新約聖書の主な写本

新約聖書の異形

① 一例 マルコ1:1 [神の]子?

  聖書写本の内、古いもので、信頼性の高いものの中でも、異形が見れる件を一つ取り挙げましょう。マルコ1:1は「Ἀρχὴ τοῦ εὐαγγελίου Ἰησοῦ Χριστοῦ Υἱοῦ Θεοῦ.」(Ἀρχὴ「~のはじめ」 τοῦ「冠詞」 εὐαγγελίου「~の福音」 Ἰησοῦ「イエス」 Χριστοῦ「キリスト」 Υἱοῦ「~の子」 Θεοῦ「神」.)ですが、写本だと、全部大文字で書いて、空白とパンクチュエーションマークがなく、また神についての言葉がよく出るゆえに、下のように書かれている。(ヴァチカナス写本)

しかし、シナイ写本と比較した時、「神の子」が抜けています。

でも、よく見ると、下記写しの間違いを直すために、書きこんであります。

これについてどう思いますか?このことからして、リベラル学者は、一番最初のマルコの福音書では、イエスが神でなく、三位一体を信じていなかったではないかと問います。決してそのことはありません。マルコの福音書の中にイエスを神の子と表す箇所は他にもいっぱいあります。

シナイ写本のアップ

シナイ写本のアップ

ブロックとして存在する異形は二つしかありません。マルコの終わりと、ヨハネ7:53-8:11。節ごとのレベルは数少ないです。言葉のレベルではたくさんあります。しかし、どのレベルのものでも、神学がガラッと変わる内容が一つもなく、キリスト教の神学的な内容はこれらにかかっているものはありません。

旧約聖書の異形

旧約聖書も異形が存在しますが、新約聖書ほど写本が残っていません。それは多くの理由がありますが、写本が少ないから異形も少ないです。特に研究が進めているのは、アレッポ写本とレニングラード写本の比較や、死海文書と七十人訳との比較。

ちなみに本題から外れますが、一部の異形は、旧約聖書のヘブライ語に組み込まれています。その時に、ケティブ(書かれた文字)とケレ(読む意味)と呼ばれていますが、日本語で、漢字に当て字の読み方をつけるようなものと考えられます。例えば:「奇跡の地球」=「きせきのほし」だったら、「地球」がケティブで、「星」がケレになります。詩篇100:3のケレを用いて訳された新改訳だと「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」しかし、文書に残されているケティブでは「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。[私たちは自分で自分を創造していない。(私たちは)]主のもの、主の民、その牧場の羊である。」

情報の保存度、信頼性を考えましょう:電子データのバックアップと比較

① 複数のコピー(多いほど良い)

② 地理的に分散(遠いほど良い)

③ 誤りが分かるチェックビットのある形式(聖典の言語の文法的一致、注釈書の引用、他の言語の訳文)

聖書はこの3つともそろっています。

まとめ:大事なポイント!

① 聖書は霊感によって与えられて、神様のみ言葉そのもので、人が霊感を受けて書き記し、人が霊感を受けて編集しました。現在の形になったのは70年より前と思われます。

② 聖典は固定されています。旧約聖書の39巻と新約聖書の27巻で構成されています。人が決めたのではなく、信仰者が認めました。それ以外のものは外典で、聖典は完成されています。新しいものが出てくること(たとえば、コーランやモルモン書)は決して聖典ではありません。

③ 信頼性の高い方法で伝達されていて、原文は何だったかについて、強い確信が持てます。異形があるにしても、神学を左右するほどのものが一つもありません。

参考

① Canon Revisited: Establishing the Origins and Authority of the New Testament Books

 新約聖書の聖典がどのようにできたか、そしてその原点と権威、内典と外典についても細かく説明してあります。

② Introduction to the Hebrew Bible - Tim Mackie

③ Dan Wallace lecture https://www.youtube.com/watch?v=zZ5cgQUJnrI&t=6883s