相対論

(弁証学でいえる)相対論の定義

 相対論とは、どれも真理であるとの主張です。もしくは、どれもある程度の真理だけど、絶対的な真理、完璧な真理はないか、あっても人間に知ることのできないものです。多くの場合、この人はこの立場を逃げ場としています。あまり考えたくもなく、宗教は自分にとって、関係のないものと思っています。不可知論者、懐疑論者、多神論や汎神論者(神道、ヒンズー教など)も、今回の話のために含めるし、パワースポット、占い、幽霊、宇宙人などを信じる人もこの枠の中として考えていいと思います。

 日本人に多いのは、国のアイデンティティの一部として言えるぐらいからです。小学生にも教えられています。聖徳太子は仏教と神道の信者の争いに板挟みになったら、調和を作るため、お寺にも行ったし、神社にも行ったとされています。この事について争うのではなく、それぞれの良いものを受け取って尊重を表すようにしました。または、日本には日本の神々がいて、別の国は別の神がいるとします。

 現代社会においても、この考えが全体的に見受けられます。愛は愛だととなえたり、他人にあなたの道徳を押し付けるなと言ったりします。

道徳的中立は存在しない

21:23 それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」

21:24 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」

すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。21:26 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」21:27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。

イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。

21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。21:29 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

ーマタイ21:23-32

何が真理なのかより、何が便利?

 「絶対的な真理がない」というのは、絶対的な表現です。「あなたは自分の道徳感を人に押し付ける権威がない」というのは、道徳感を押し付ける表現です。「私に、あなたの価値観を強制するな」というのは、価値観を強制しようとする表現です。相対論の立場は、自論駁(ろんばく)的です。

 「宗教は私には関係ない」、「私は何も信じない」とは、宗教的な発言、信じていることを表現しています。生きていくなかで、アイス・クリームのようなものがあって、インシュリンのようなものがあります。どのレストランに行ってもいいですが、聖書の三位一体の神は絶対的で一つしかないと言っています。

45:5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。

ーイザヤ45:5

 道徳的な中立をとろうとする行為は中立ではありません。ものごとはそれぞれ主観的に知れるものと客観的に知れるものに分かれます。大事な質問は接待的な道徳はあるかどうかなのです。だれが背が高いか、だれが綺麗なのか、それを分けるためには客観的な基準が必要です。相対論者は、私の真理とあなたの真理を、私の視点とあなたの視点をただの意見とします。しかし、善悪が分かる絶対的な基準があります。だれでも、「不公平だ!」と言ったところで、相手に通じる共通のはずの、絶対的な客観的基準にアピールしています。

 例えば、信じる視点をとることに対して、何か頼ることが何かの弱さとして必要としますか、と馬鹿にされても、その人は逆に信じない弱さを必要としています。信じる視点を「原理主義者」、「偏屈な奴」などと言われるけど、それは客観的ではなく、主観的であり、同じ主観的な基準ではどの相手でも「醜い」です。信じない人の懐疑(かいぎ)は、生まれ育った環境による懐疑と問われます。

 大きなポイントはだれも実際には相対論的に生活しないのです。自分の話す言葉は客観的な意味があると信じていて、他人はその客観的な意味を受け取ると信じています。

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神道

 上記にて、一般的な相対論について考えましたが、ここからは日本の神道について、もう少し細かく考えたいと思っています。実際に弁証学を適応する時、一番最初に把握しないといけないのは相手の立場です。クリスチャンでも、人によって少し信じる内容、強調する内容が違うと同様に、神道だとなおさら、一人一人では違います。

 よくある一つの主張は、日本人として日本の伝統を大事にしたいということです。ヒズコールチャーチの特徴の一つとしては、日本の文化を受け入れ、贖えるところを贖い尊重します。偽りのものとして受け入れない部分もありますが、和魂を決して拒みません。その線はどこに引くかについて考えましょう。

 神道とは日本にとって「本来の信仰」でしょうか?。。。

 天皇の歴史?。。。支配されず?。。。日本人論?。。。愛国主義と国粋主義の違い?。。。

 和太鼓?。。。日本舞踊?。。。茶道や生け花?。。。空手など武士道?。。。祭り?。。。七五三?。。。

 自然の神秘さ。。。お守り?。。。神棚?。。。偶像礼拝(詩篇135:15-18、イザヤ44:9-20)。。。

 イスラエルの失われた部族?。。。

弁証法について、再認識して欲しい。。。

3:8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。3:10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、3:11 悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」3:13 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。3:14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。3:17 もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。

ー1ペテロ3:8-17

弁証法

  1. キリスト教を正確に伝わるように伝えて、弁証します

  2. 意義に答えて、弁解します。

  3. 相手の立場の矛盾を照らし、弁明します。

豆知識

 ①相対論の人は深く考えたことがないことが多い。。。キリスト教について証したり、福音を伝えたり、関係ないならパスカルの賭けを使って調べてほしいことを伝えたりするといいです。

 ②相手がある程度理解して、質問を出し、それにこたえ方が分からない場合、調べることを伝えて愛してあげてください。

 ③イエスは真理です。「そうなんだ~」と返しません。立場的に福音を伝えることが難しい場合は別の方法。。。

 ④「すべてが変わる。」いや、神様とそのみ言葉は変わる事はありません。


リーディングプランキリスト教の精髄 ch. 13-15

リーディングプラン

キリスト教の精髄 ch. 13-15

質問

①どうして、どなたにとっても、正しい信仰を確信することは大切ですか。(関係性)

②相対真理と絶対真理について述べてください。

③「日本の伝統を大事にしたい」という人に対して、どのようにキリスト教を弁証しますか。