前提弁証学

主を主とすること

3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい

ー1ペテロ3:15

 聖書は私達の上に権威があることは、哲学などによりません。聖書は神の息込み、霊感によるものです。クリスチャンとして主を主とするなら、中立な立場がないことを認識して、主の真理に立たないといけません。ローマで分かっていることは人間の知恵は愚かさです。箴言では神は「知恵」そのものです。聖書の権威をは聖書によることは循環論法ではありません。神様の証ができるものは、神様の他にいないからです。

10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

ーヘブル10:23

 真実な神がいるので、しっかり希望の告白をしよう。一般啓示は神の性質を明らかにしているので、聖書なしに独立した特別啓示まで議論しようとする行為は反逆です。反逆は人をみえなくします。

10:3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

ー2コリント10:3-6

誰でも、神学者であること

 明確にしていなくても、それも神学的な立場であることを認める必要があります。キリストを主として信じるか、そうじゃないか。それ以外にありません。それに、その二つとも、神学的な立場であります。生きた真実である三位一体の神が絶対的な権威をもつ無謬である御言葉を通して人類に語りました。それゆえ、本物の弁証学とは聖書以外の証拠で聖書を弁明するのではなく、権威ある聖書の真理を適応することです。人は神について裁くのではなく、最後に、最高の裁判官である神は人間を裁くことを尊敬します。

 ノンクリスチャンがたってている偶像に真理の光を照らします。彼らに真理の土台がなく、その上に傾いて落ちるものしか建てられません。その土台に直撃すれば倒すことができます。認識論というのは、「知っていることはどうして知っているといえるか」の質問に答えることです。自然認識論の弱さは明らかです。私たちは啓示認識論に立ちます。。。

 ①ペンはどうして持っていると分かりました?「感覚認識論」

 ②1+1=2はどうしてわかりました?「合理的認識論」

 ③〇〇くんは□□ちゃんが好きのはどうしてわかりました?「直感認識論」?

 ③神がいることはどうしてわかりました?「啓示認識論」

 1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

 1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

 1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

 1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。1:32 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

ーローマ1:18-32

 1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。

 1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです

 2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

 2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

ー1コリント1,2章


リーディングプランキリスト教の精髄 ch. 10-12

リーディングプラン

キリスト教の精髄 ch. 10-12

質問

①中立な意見はありますか。信者と未信者の偏見について述べてください。

②自然認識論と啓示認識論について述べてください。