聖書の枝 マタイ5:3-5 貧しく、しかし富んでいる

聖書の枝 マタイ5:3-5 貧しく、しかし富んでいる

マタイ5:3–16は、敬虔な男女の基本的な姿の描写と呼ぶことができます。イエスの弟子たちが御前におり、イエスは彼らに向かって「あなたがたは地の塩である」と言われます。イエスはまず、神に祝福される彼らの品性の概略を示し(5:3–12)、続いて、この世において彼ら(そして私たち)がどのように機能するのかを語られます(5:13–16)。

イエスの弟子たちは、自分自身のうちには、神に受け入れられるため、また霊的な力を得るために誇れるものが何もないことを知っています。
「心の貧しい者は幸いです。その人たちのものが天の御国だからです。」(5:3)

弟子は謙遜です(「心の貧しい」)。貧しさのしるしとは何でしょうか。第一に、貧しい人は一般に、自分の境遇を良くしたいと願います。そのような人々は社会的な力をほとんど持たず、要求することができません。他者に依存しています。しばしば空腹であり、時には物乞いになることもあります。これらすべてには霊的な対応物があります。私たちは、神の助けなしに霊的に良く生きることはできません。神の前で要求できる立場にはありません。私たちは神に依存しています。しかし同時に、この霊的な弱さから抜け出したいと願っています。主にあって強くなりたいのです。私たちは神の助けに飢えています。神の助けを懇願します。このような人々こそ、神に祝福される人々です。

イエスご自身が、偉大な模範です。イエスは「心の貧しい」お方でした。霊的に自己依存することは決してありませんでした。天の父に依存しておられました。多く祈られたのは、祈る必要があることを知っておられたからです。
子は、自分からは何も行うことができない」とイエスは言われました(ヨハネ5:19、30;8:28)。
同じことは弟子たちにも当てはまります。霊的な貧しさこそ、神の祝福を経験する秘訣です。
わたしから離れては、あなたがたは何もすることができません」とイエスは言われました(ヨハネ15:5)。この「幸いの宣言」(祝福の約束)こそが、他のすべての鍵となります。

イエスの弟子たちは、神の国の到来が、自分自身の人生においても、また他者の人生においても遅れていることを悲しみます。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(5:4)

もちろん、クリスチャンは喜びに満ちた人々であるべきです。しかし同時に、ある意味では悲しみも抱えています。私たちは何を悲しむのでしょうか。神の国がまだ完全には来ていないことを悲しみます。神の栄光は、世の目において、私たちが願うほどにはまだ現れていません。義なる者たちはなお迫害され、私たちの体の復活はまだ起こっていません。悪者が栄えています。神のみこころは、天においてなされているようには、まだ完全には地上で行われていません。私たち自身も、あるべき姿には達していません。

しかし、神はこの点において私たちの困難を乗り越えさせてくださいます。「彼らは慰められる」とイエスは言われます。これは「彼らは励まされる」と訳すこともできるでしょう。主の喜びは、私たちの力です。この厳しい世界にあってもそうです。
勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」とイエスは言われました。

イエスの弟子たちは、自分自身を弁護しようとはしません。
「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」(5:5)

柔和さとは、自分の訴えや自分の立場を神の御手に委ねることができることです。詩篇の作者は言います。
「悪を行う者のゆえに腹を立てるな。…しばらくすると、悪しき者はいなくなる。…しかし、柔和な者は地を受け継ぐ」(詩篇37:1、10、11参照)。

モーセは偉大な模範でした。攻撃されたり非難されたりしたとき、彼は何もせず、ただ神の前にひれ伏して祈りました。イエスもまた、ご自身が柔和であることを知っておられました。
わたしは心が柔和でへりくだっている」と言われました(マタイ11:29)。

これは、人生で起こるすべてのことを、父のご計画として受け入れているという確信を持っておられた、という意味です。イエスが「心がへりくだっている」と言われたとき、それは、不従順や自己中心性なしに、地上での生涯について父のご計画に従っていることを知っておられた、という意味です。エルサレムに入城される際、ろばに乗られたのも、攻撃性や高慢さを意図的に避けられたからでした(21:5)。

では、人はどのようにして、このような生き方に至るのでしょうか。それは、神についての幻を見ることと深く関係しています。神の栄光を垣間見ること以外に、私たちを真の柔和さと謙遜へと導くものはありません。
天に向かって目を上げたとき、私の正気は戻った」(ダニエル4:34)。

自分の罪深さを見、神の愛と誠実さの偉大さを見るとき、イエスの語られた幸いの宣言の生き方を、神が私たちのうちに実現してくださるという希望が生まれます。ただし、ここで一つ付け加えなければなりません。この種の謙遜は、「自分には価値がない」と感じることとは同じではありません。人間は、自分を誇ることと自分を卑しめることとの奇妙な混合体です。この謙遜とは、物事をあるがままに見ることなのです。

イエスが、重荷を負っている者に安らぎを与えると申し出ながら、「心がへりくだっている」と言われたとき、それは自分の謙遜を誇っていたのでも、自分自身を偽っていたのでもありません。謙遜とは、神がだれであるかを知り、神が私たちのために定められた場所を知り、それを守ることです。心の貧しさと柔和さとは、自分自身の必要を知ることです。これらは、この世界と私たちの人生における神の取り決めを見極め、それに固くとどまることに関わっています。

それは臆病さではありません。責任を拒否することでもありません(モーセとイエスはいずれも大きな責任を担っていましたが、神の国の指導者として謙遜でした。民数記12:3参照)。他の人々にとっては、栄光の報いは後に来るのであり、今は無名や従属が神のみこころである場合もあります。最初の三つの幸いの宣言は、父のご計画に誠実に従い、それが実現するために神とともに働くことに関わっています。それは実に、深くへりくだらせることです。

しかし、このように生きることには、大きな幸福があります。そのような人々は、神の国を経験します。これは、単に「救われている」という意味だけではありません。神が王として力強く働いておられることを、人生の中で経験するのです。「神の国」とは、神が王として働いておられる状態のことです。

彼らは、住んでいるこの世界の罪深さを悲しみながらも、祝福されています。神の慰めと主の喜びを経験します。自分を弁護しないとき、地を受け継ぐことを見いだします。この世にあっては何も持たないようでありながら、すべてのものを所有しているのです。