聖書の枝 マタイ5:1-2 敬虔な生き方の提示

聖書の枝 マタイ5:1-2 敬虔な生き方の提示

マタイ4:23は、マタイの福音書における新しい区分の始まりです。ここは、イエスの働きの要約から始まります(4:23–25)。イエスは人々を教え(4:23前半)、奇跡を行われました(4:23後半–24)。その評判はガリラヤだけでなく、国の他の地方にも広まりました(4:25)。ここには、働きの二つの側面が並べて示されています。宣教(説教)と、神の国の力のしるしです。

マタイ5–7章は、イエスの教えの一つのまとまりを示しています。これは(しばしば考えられているように)イエスの働きのさまざまな時期から集められた断片的な教えの集成ではありません。7:28が明らかにしているように、一つの機会に語られたものです。マタイの福音書は、資料をまとまり(ブロック)として配置する傾向があります。マタイ8–9章には奇跡物語のまとまりがあります。ここには教えのまとまりがあります。

それは、厳密な意味で一つの「説教」として語られたとは限らないでしょう。途中に休止や間があった可能性があります。数日にわたって語られた教えの要約であったかもしれません。しかし、どれほどの時間を要したにせよ、一つの機会に与えられたことは確かです。それはガリラヤの丘陵地帯で語られた、単一で統一されたメッセージでした。アウグスティヌスはこれを「山上の説教」と呼び、私たちは今もこの教えをその名で呼んでいます。

山上の説教は、弟子たちがどのような生き方をすることを意図されているかを描写しています。山上の説教は、しばしば論争の的となってきました。人々はこれを、さまざまな仕方で理解してきたからです。

1.これは、伝道的教えではありません(最初の救いの経験に至る方法を教えるものではありません)。

2.これは、社会全体のための道徳でもありません。これは立法ではありません。もし「法律」として適用しようとすれば、ばかげた結果になる箇所もあります。これは十戒に相当する新しい律法ではありません。そもそも律法ではなく、規則として私たちに提示されているものでもありません。これはシナイ山で与えられたものとは異なります。

3.これはモーセの律法でもありません——ただし、モーセの律法が指し示していたものの成就である、とは言えるでしょう。その中には、律法では一度も言及されていない事柄が多く含まれており、さらには律法と矛盾するように見える命令さえあります。律法は「目には目を」と語りました。山上の説教にあるものは、私たちがこれから見るように、それとは全く異なります。モーセの律法は、主として市民の指導者や社会全体のために与えられたものであり、国に義を強制するものでした。心を扱っているのは、第十戒だけでした。山上の説教にあるものは、内容においても、語り方においても異なります。それは律法が目指し、指し示していたものではありますが、単なる立法ではありません。

4.これは、政治的綱領や社会改革のプログラムではありません。しばしばそのように理解されてきました。「もし皆が山上の説教のとおりに生きたなら、どれほどすばらしい世界になるだろう」と人々は言います。それは確かにそのとおりですが、そう言う人々は、この説教を本当に注意深く読んでいません。この教えは、すでに信仰を告白している人々に向けて語られたものであり、世に向けて語られたものではありません。社会改革を呼びかけるものでもありません。イエスがどれほどご自身について語っておられるかに注意しなければなりません。イエスは「わたしはあなたがたに言う」と語り、ご自分の名のために苦しむことについて語られます。さばきの日には、ご自身が裁き主となると言われます。「これらのわたしの言葉」を、人生を建てる岩であると言われます。これを社会改革の綱領として受け取る人々は、イエスがご自身についていかに大きな主張をしておられるかを見落としがちです。

5.これは、終わりの直前の短期間のための、「暫定的倫理」でもありません。

6.これは、遠い将来の王国、未来の時代や千年王国だけのために設計されたものでもありません。イエスは、目の前にいる弟子たちに、どのように生きるべきかを語っておられるのです。「幸いである、あなたがたは…」と語られます。同種の教えは、新約聖書の書簡にも見いだされます。

では、この山上の説教とは何でしょうか。それは、イエスが、現在および将来のすべての弟子たちに求めておられる生き方の描写です。イエスはまず、ご自身の民から始められます。ここは、敬虔な生き方の描写から始まります。イエスは、規則の形でというよりも、主イエス・キリストの支配の下に置かれた者たちが生きるべき生活の姿として、どのように生きるべきかを示しておられるのです。

イエスは弟子たちを呼び寄せ、彼らに語り始められました(5:1–2)。それは、ご自身が弟子たちに生きてほしいと願っておられる、敬虔な生き方について語るためでした。