聖書の枝 マタイ5:18 律法はいつまで続くのか
イエスには、旧約聖書を軽視したり退けたりする意図はまったくありません。イエスは、旧約聖書はすべてご自身について語っていると主張されます。そして、ご自身がそれを一字一句に至るまで成就する義務を負っていると語られます。イエスはこう言われます。
「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も、すべてが成就するまでは決して消え去ることはありません。」(5:18)
イエスは「まことに(For)」という言葉から始めておられます。これは、5:17で語ったことの説明です。
1.モーセ律法には、成就されるべき運命と使命がある
イエスは、律法が「すべてが成就するまで」「すべてのことが起こるまで」存続すると語られます。これは、モーセ律法の成就として起こるべき出来事があることを示唆しています。律法には、果たされるべき**計画(プログラム)**があり、神は何かを行おうとしておられ、その救済のご計画を律法が前もって示し、指し示しているのです。
イエスが指しておられるのは、「五書(モーセ五書)」の最も細かな部分に至るまでのすべてです。律法には多くの側面があります。刑罰への恐れによって人を抑制する面、主要な道徳原理、特定の刑罰の要求、儀式や祭礼、聖なる日々の遵守、動物の犠牲の屠殺、部族規定、宗教と国家が一体となった国民体制(不忠に対して死刑を伴う)、農業や経済に関する規定、着てよい衣服や食べてよい食物に関する規定まで含まれます。
律法全体が、世界に救いをもたらす神の計画の中で、何らかの役割を果たしています。それらはすべて、イエスに関わる出来事において成就されるのです。
「それでは律法は神の約束に反するのでしょうか。」(ガラテヤ3:21)
決してそうではありません。律法の最も細かな部分に至るまで、すべてがイエスと、彼がもたらす愛の王国を指し示しています。
2.モーセ律法は、予告されたすべての出来事が起こるまで、イスラエルに対して権威を持ち続ける
律法には、果たされるべき使命と運命があります。それは「天地が過ぎ去るまで」続くほど安定したものです。誰もそれを無効にすることはできません。ただし、注意すべき点があります。それは、この権威は常にイスラエルに対するものであったということです。すべての国民がモーセ律法の下に置かれているわけではありません。
御霊の注ぎは、あらゆる国民のクリスチャンの間で律法を成就させますが、これはシナイ律法が世界全体に与えられたことを意味しません。世界には律法は与えられていません。
十戒ですら、「わたしはあなたをエジプトの地から導き出した」と、イスラエルに向けて語り始められています。福音の命令は律法を成就します。すべての人には良心がありますが、聖書はそれを「律法」とは呼びません。
私たちは、「律法」には十戒の中のごく一部(全体の約1%)以上の内容が含まれていることを忘れてはなりません。イエスは、律法の一文字一画すべてについて語っておられます。
ユダヤ人の王を持つのはイスラエルだけです(申命記17:15)。土曜日の安息日を死刑の制裁の下で守る義務があるのもイスラエルだけです。動物の犠牲を日々ささげ、年三回成人男性が中央聖所に上る義務を負っているのもイスラエルだけです。
シナイ律法の最も小さな部分であっても、それが意図していた目的を達成するまでは、決して無効になりません。律法は永遠ではありませんが、その成就だけが、人をその要求や脅威から解放します。
3.神の律法は、成就された時点で適用を終える
マタイ5:18には二つの時間条件があります。
「天地が過ぎ去るまで」
「すべてが成就するまで」
これは非常に特異な表現です。さらに、マタイは通常の heōs(まで)ではなく、より強調された heōs an(いつであれ〜するまで)を用いています。これは、条件が満たされるまで時間が開かれていることを意味します。
では、律法が適用を終える時とはいつなのでしょうか。この二つの条件は同じ時点を指しているのでしょうか。
最初の条件、「天地が過ぎ去るまで」は理解しやすく、世の終わりを指しています。律法は永遠ではありませんが、この歴史の時代と同じほど長く続きます。
より難しいのは、「すべてが成就するまで」という表現です。これが前の条件を限定し、修正していると考える理由があります。
(i) 両方が同じことを言っているなら、なぜ二度言う必要があるのでしょうか。
(ii) マタイ24章にも同じ二重の時間表現があり、「すべてが成就するまで」は一世代以内に起こる出来事を指します(24:34)。一方、24:35ははるかに長い期間を指します。
(iii) 実際に5:21–48では、神が民に求められた具体的要求が修正されています。
したがって結論はこうです。イエスの権威が受け入れられるところでは、モーセ律法は成就されるのです。マタイ28:20は、私たちがモーセ律法の下ではなく、復活された主イエス・キリストの下にあることを示しています。これはヨシュア1:8とはまったく異なります。
5:18の「すべてのこと」とは、イエスの来臨、死、復活を指しています。信者にとって、モーセ体系による神との関係は、イエスの復活の力と聖霊の導きによって成就されます。
4.モーセ律法は、最終的には完全に終わる
律法には二重の終末があります。イエスを受け入れる者にとっては、権威は律法からイエスへと移されます。イエスを受け入れないイスラエルの民に対しては、律法のさばきが残り、それは実行されます。
クリスチャンの上にある権威は、厳密にはモーセ律法ではなく、律法を成就するイエスの要求です。しかし、復活された主イエスの下での新しい生は、律法の下での生活よりも敬虔でないわけではありません。イエスの下での生活は、律法が指し示していたすべてを実現します。
クリスチャンはモーセ律法を軽んじません。律法を読み、そこから学びます。しかし、単純で未整理な意味で「律法の下」にあるのではありません。
マタイ的に言えば、彼は律法を成就し、パウロ的に言えば、御霊によって歩むのです。
