聖書の枝 マタイ1:12~25 奇跡の子の誕生
マタイは、ダビデ王に与えられた約束を私たちが特に覚えるように意図しています。イエスは「ダビデの子」です。
(i) イエスはダビデの家系に生まれた救い主として、預言を成就されました。
(ii) イエスはダビデと同じ「型」「パターン」で来られました。ダビデと同様、人々が全く別の人物を期待していた中で、神によって特別に選ばれたのです。
(iii) ダビデと同じく、イエスは神を愛し、偶像礼拝を憎まれました。
(iv) ダビデと同じく、神の王として召されたその日から、聖霊に満たされておられました。
(v) ダビデと同じく(ただし軍事的ではない形で)、イエスは神の民全体の王です。
マタイ1:2–17は三つの区分に分かれています。
ダビデ王権以前、ダビデ王権の時代、ダビデ王権以後です。
1.低くされた家系から生まれた「若枝」
家系が低く貧しかった時代に、ダビデの系統から小さな「若枝」が生まれました。神の救い主は、最も卑しめられた状況の中で誕生しましたが、確かにダビデの子であり、ダビデに与えられたすべての約束は、この方において成就しています。
マタイ1:12–16は、ダビデ家系の衰退を記しています。シェアルティエルについて私たちはほとんど何も知りません。彼は生涯を捕囚の地で過ごしたと考えられます。その子ゼルバベルは、紀元前538年のエルサレム帰還と神殿再建の監督者としてよく知られています。しかし、その後に続く人物──アビウデ、エリヤキム、アゾル、ツァドク、アキム、エリウデ、エレアザル、マタン、ヤコブ──については、私たちは全く何も知りません。
ダビデ王家の王統は貧困へと沈んでいきました。マリアの夫ヨセフが生まれたころには、この家系は極度の貧しさの中にあり、ヨセフは大工でした。
マタイ1:17は、再びイエスのダビデ的出自を強調します。この系図は選択的であり、意図的に十四代ずつ三つの区分に配置されています(エコンヤの名が二度挙げられているのは、第三の十四代を成立させるためです)。
2.救い主の超自然的起源(1:18–20)
救い主は超自然的な起源を持っておられます。イエスは通常の出産によって生まれましたが、受胎においては男性が関与していません。聖霊の働きによって、男の種がマリアの胎に置かれたのです。
イスラエルにおける結婚は段階的でした。婚約、婚約成立(法的拘束力を持つ段階)、そして結婚です。この第二段階を破棄するには離婚が必要でした。イエスは、ヨセフとマリアの関係における第二段階と第三段階の間に宿られました。そのためイエスは法的にはヨセフの家系に属し、ダビデの家系から王なるメシアが出るという預言は成就したのです。
神が特別な人物を遣わされるとき、その誕生にはしばしば奇跡が伴います。イエスは神の御子です。神は、史上最大の奇跡の誕生によって、イエスの偉大さを示されました。
ヨセフはマリアの妊娠を知ります。彼はマリアが不貞を犯したと思いましたが、怒ることも、妥協することもなく、慎重に神のみこころを求めました。義を貫いてマリアを公に辱めることもできましたし、愛情だけで事態を黙認することもできました。しかし彼は、義と愛の両立する道を探しました。
そのとき、神が介入されます。ヨセフは御使いの訪問を受け、その問題は解決されました。
3.救い主の働きは「救い」である(1:21)
ヨセフは、イエスが何をなさる方であるかについて示されます。
「その名をイエスと名づけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださるのです。」
(マタイ1:21、新改訳2017)
「イエス」という名は当時としては一般的な名前で、「ヨシュア」と同じ名です。その意味は「主は救われる」です。この幼子は「主」そのものです。神が人となって来られました。では、何のために来られたのでしょうか。その名が示す通り、「主は救われる」のです。
イエスは救い主として、危険から救い出すために来られました。その危険とは、罪と罪深さです。私たちは本性として罪に傾いています。罪には、罪責と裁きの危険があります。人の人生を汚し、破壊する力があります。罪の結果と影響があります。イエスは、そこから私たちを救い出すために来られました。
やがて私たちは、罪のすべての結果から完全かつ最終的に救い出されます。宇宙そのものが新しくされ、死と苦しみは完全に取り除かれるのです。
では、この救いはどのようにして私のものとなるのでしょうか。イエスは「ご自分の民」を救われます。この救いは自動的に与えられるものではなく、受け取られる必要があります。イエスの民となる者が、その救いを持つのです。
4.救い主は、神が長く告げてこられたご計画を成就する(1:22–25)
マタイ1:22–23は、御使いの言葉ではなく、マタイ自身の言葉です。旧約聖書は、イエスの到来に備えて神がなさったことを記録した、霊感された歴史の記録です。
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。」
(マタイ1:22、新改訳2017)
ここで重要なのは、主ご自身が預言者を通して語っておられたという点です。旧約聖書には人間の著者がいます。各書の著者には、それぞれの文体があり、自分たちの時代に起きていた現実的な出来事に応答して書いていました。イザヤ書7章(マタイ1:23で引用されている箇所)も、そのような歴史的状況の中で語られています。
イザヤ7章では、二つの国がイスラエルに敵対して結集しているという、差し迫った政治的・軍事的危機が背景にあります。イザヤは、その状況に対して語るべき神のことばを持っていました。
しかし同時に、聖書には神的著者性があります。預言者が語り、後に書き記したとき、神は特別な助けを与えられ、その最終的な結果は神のことばそのものとなりました。これは深い神秘です。神は、人間が自由意志をもって行動しているその中で、ご自身のご計画を完全に成就されるのです。人間は自由に聖書を書きましたが、神はご自身の御心を完全に実現され、聖書は語一句に至るまで、神が意図されたとおりのものとなりました。これは人間の理解を超えることです。
イザヤはアハズ王のもとに行き、**ダビデの家系を通して救いがもたらされるという「しるし」**を示しました(イザヤ7:1–11)。アハズはそれに対して懐疑的でした(7:12)。するとイザヤは、人間的洞察をはるかに超えた次元へと導かれ、彼自身からは決して生み出せなかったことばを神から与えられました。
「それゆえ、主ご自身が、あなたがたに一つのしるしを与える。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと名づける。」
(イザヤ7:14、新改訳2017)
イエスの誕生の七百年も前に、処女懐胎が預言されていたのです。イザヤは、自分の時代の出来事を超えて、はるか先に起こる神の救済計画を見せられました。神は、処女懐胎という奇跡を通して世界を贖われることを定めておられたのです。
イザヤはアハズに対し、「よみの深みにも、天の高みにも」及ぶ、どのようなしるしでも求めよと語りました。しかしアハズは懐疑的でした。そこで、「主ご自身がしるしを与える」と言われます。それは何のしるしでしょうか。それは、ダビデの家が存続し、世界的な贖いが実現するというしるしです。
イザヤは、その子がすでに目の前にいるかのように語ります。その子が成長する間に(まるで現に存在しているかのように)、当時の危機は去っていくのです。つまり、イザヤの時代においてダビデの家が滅びることはあり得なかったのです。なぜなら、はるか未来に、神はダビデの家系から救い主を起こすと定めておられたからです。
これは完全に奇跡的な預言です。イザヤ自身が、処女懐胎という出来事を人間的に知り得たはずがありません。イザヤ7:14に用いられている語は、確かに「処女」を意味します。
聖書の成就は、イエスが聖書の語る通りのお方であることを、いよいよ確かなものとします。
「そして私たちは、預言のことばを、いっそう確かなものとして持っています。」
(Ⅱペテロ1:19、新改訳2017)
御使いの勧めを受けて、ヨセフは喜んでマリアを妻として迎えました。そして時が満ち、イエスはお生まれになりました(マタイ1:24–25)。こうして、神が長い年月をかけて告げてこられた救済のご計画は、完全に成就したのです。
