聖書の枝 マタイ3:13–17 イエスの力づけと召命

聖書の枝 マタイ3:13–17 イエスの力づけと召命

イエスの働きが始まる前に、いくつかのことが起こる必要がありました。まず、バプテスマのヨハネの働きがなければなりませんでした。その後、イエスご自身に起こるべき事柄がありました。

1.イエスはバプテスマを受けなければならなかった

ヨハネの水のバプテスマとは何だったのでしょうか。それは明らかに何らかのしるし、象徴でしたが、だれが、だれに対して、何のしるしを与えているのでしょうか。
(i) それは神からのしるしです。罪を赦そうとする神のご意思を象徴していました。
(ii) それは、バプテスマを受ける人から神へ、また自分自身へ、そして関心を持つすべての人々へのしるしです。すなわち、罪の悔い改め、すべての罪を悔い改めるという公的な意思表示を象徴していました。
(iii) それは、共同体の一員とすることです。バプテスマを受けたイスラエルの人々は識別されました。彼らは、イエスの到来に備えた民だったのです。

では、なぜイエスはバプテスマを受けたのでしょうか。イエスがガリラヤからヨルダンへ来て、ヨハネからバプテスマを受けようとされたとき(3:13)、ヨハネ自身は困惑し、それを拒もうとしました(3:14)。水のバプテスマは罪人のためのものであり、ヨハネは自分自身が罪人であることを知っていましたが、イエスには一度も罪を見いだしたことがなかったからです。むしろ、イエスこそヨハネにバプテスマを授けるべきではないでしょうか。

しかしイエスはヨハネに答えられました。
「今は、そのままにしておきなさい。私たちがこのようにして、すべての義を成就することが、ふさわしいのです。」(3:15)

旧約において、神の「義」、すなわち人々を救う神の正しい方法が、救い主によって世に現れることが預言されていました。イエスが言っておられるのは、「これは救いの計画の一部であり、それを成就すべき者はわたしである」ということです。

イエスのバプテスマは、罪人と公に同一化された日でした。イエスは、世の救い主としての働きを引き受けようとしておられました。そのために、罪人と同一化し、彼らの罪を引き受けられるのです。罪人たちがバプテスマを受けるために列を作っていたとき、イエスもその列に加わられました。

2.イエスは聖霊を受けなければならなかった

イエスが水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、イエスの上に留まるのをご覧になりました(3:16)。サムエル記上16:13のダビデと同じように、イエスもこの日から聖霊の力を受けられました。

この聖霊の賜物とは何でしょうか。それは決してイエスの回心ではありません。それは、御子としての確証であり、働きのための力づけでした。聖霊を受けられたのと同時に、イエスはご自身が神の御子であることの確証を受けられました(マタイ3:17)。

3.イエスは救い主としての召しを受けなければならなかった

天からの声は言いました。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)

この文の後半は、イザヤ40–55章から取られています。これは、イエスが「苦難のしもべ」として召されたことを示しています。

イエスのバプテスマは、神によって用いられて、イエスに霊的祝福をもたらしました。バプテスマは(他の意味もありますが)、人生において神のみこころに従うという献身の表明です。そのような時に、必ずしも常にではありませんが、神が聖霊を与えることによって、その人の人生に祝福を確認されることがあります。イエスに起こったのがそれでした。

これは、水のバプテスマにおいて、常に劇的で意識的な形で聖霊が与えられるという意味ではありません。しかし、そのようなことが起こり得ます。五旬節の日にそのことは約束されました(使徒2:38)。ペテロは、すでに信仰に来ていた信者たちに対して、
(i) これまでの歩みについて心を変え、
(ii) 信仰のしるしとしてバプテスマを受けるなら、
意識的に聖霊を経験すると約束しました。

それはパウロにも起こりました。彼はイエスを信じるに至った後(使徒9:5–6)、バプテスマを受け(9:18)、聖霊によって「力づけられ」ました。彼はバプテスマにおいて主の御名を呼び求め(22:16)、そのことによって、罪の負い目が良心から洗い流されたのです(22:16)。

イエスの場合、罪の赦しの宣言はありませんでした。それは必要なかったからです。イエスは決して罪を犯されませんでした。しかし、御子であることの宣言はありました。イエスは、天からの声によって、ご自身が確かに「神の御子」であることの、より十分な確証を受けられました。すでにそれをご存じではありましたが、聖霊の賜物とともに、御子としての確信はいっそう深められたのです。

天からの声は、イエスをイスラエルの救い主として、同時に世界の救い主として召しました。「わたしはこれを喜ぶ」という言葉は、イザヤ42:1から取られています。これは、苦しみによって世界を救う「神のしもべ」について語る、イザヤ書の多くの箇所の一節です。天からの声は、イエスがだれであるかを告げると同時に、神を喜ばせ、救いの業を成し遂げる、神の苦難のしもべであることを確認したのです。

イエスがバプテスマを受けたとき、多くのことが起こりました。イエスは、バプテスマのヨハネが神の救いの計画を語る真の説教者であることを確認されました。同時に、バプテスマを受けることによって、罪人の立場に立たれました。イエスは、聖霊による特別な力づけを受け、それとともに、ご自身が唯一無二の神の御子であることの確証を受けられました。そして、天からの声は、イエスを神の苦難のしもべとして任命しました。

イエスがヨルダン川の水に入り、そこから上がられたように、天からの声は、**世界にもたらされる「神の義」**のための、イエスの死と復活へとイエスを召したのです。

イエスはもちろん唯一無二のお方です。だれも、彼のように世界の救い主として召されることはありません。しかし、イエスの弟子となる者すべてに当てはまる並行があります。私たちもまた、従順の道の一部としてバプテスマを受けなければなりません。私たちもまた、聖霊の力を必要としています。そして神は、私たちの人生に対する召しを、明らかにしてくださるのです。