カルト
それはカルトでしょうか
モルモン教、エホバの証人など、同じイエスを信じていると言いますが、異教的な教え、異端的な教えを持っている。信じているのは、違うキリスト、違う福音。だから、正統的なキリスト、正統的な福音を信じているかをここで確認したいです。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
ー1コリント2:2
1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
ーガラテヤ1:6-9
また、イスラム教もイエスを信じるけど、違うイエス、すなわち違う福音を信じます。イスラム教はキリスト教とは全く違う宗教を認めるが、キリスト教系の異端に似ている教えが多くて、モルモン教などのように、「ユダヤ教とキリスト教の続きにくる真なる信仰の復帰」だと主張するので、弁証学的にはイスラム教をキリスト教の異端として扱います。
同じようにカトリック教は、同じキリストを信じているのに、違う福音を信じているので、そちらの方もみてください。
① 同じキリストか?
ア)正統的な教えは、イエスは永遠に父なる神とともに共存していて、被造物ではなくて、すべてのものを無の状態から創造した主なる神です。」
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ーヨハネ1:1,2,3,18,14
※「ひとり子」=「μονογενής 」(モノゲネース)ギリシア語に忠実な訳「唯一」・「比類なき」。KJVの「only begotten」誤訳によって、モルモン教やエホバの証人など、多くのカルトが由来しています。
イエスを信じるものは御子イエスと違って、養子の霊を受けて、養子として神の子です。(ヨハネ1:12-13、ローマ8:15)
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
ーコロサイ1:15-20
※「造られたすべてのものより先に生まれた方」=「πρωτότοκος πάσης κτίσεως」(プロトトコス・パセス・クティセオス)ギリシア語に忠実な訳「造られたすべてのものの上の長男」
わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。
ーイザヤ43:10b
モルモン教もエホバの証人もイスラム教も、これと対立しています。
モルモン教の異端的な教えは、イエスは始めがあったと教えていて、さらに父なる神も初めがあったと教えています。
エホバの証人の異端的な教えは、イエスが天使だったと教えて、被造物として始めがあったと教えています。
イスラム教の異端的な教えは、イエスが油注がれた「キリスト」でも、始めある創造された人間の預言者に過ぎないと教えています。
イ)正統的な教えは、「三位一体」
正統的に、神は三位一体、三つの位格(υπόστασις ヒュポスタシス)だが、唯一の神が存在し、一つの実体(ουσία ウーシア)です。三つの神ではない、一位ではない。三つの位格、そのその三つは唯一の共存で共同であって、一つの実体である。
イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
ーイザヤ44:6
わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れた所で語らなかった。それが起こった時から、わたしはそこにいた。」今、神である主は私を、その御霊とともに遣わされた。
ーイザヤ48:16
(שְׁמַ֖ע יִשְׂרָאֵ֑ל יְהוָ֥ה אֱלֹהֵ֖ינוּ יְהוָ֥ה ׀ אֶחָֽד ׃)聞け、神の勝利の民よ。主、あなたの神、主は一つ。
ー申命記6:4
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
ー出エジプト記3:14
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
ー2コリント13:14
モルモン教もエホバの証人もイスラム教も、これと対立しています。
モルモン教の異端的な教えは、無数の神々がいて、その神々は全員、個別の存在で、人間だったが、どの人間も神になれると教えています。
エホバの証人の異端的な教えは、唯一の神がいて、イエスも聖霊も神ではないと教えています。
イスラム教の異端的な教えは、唯一の神がいて、イエスも聖霊も神ではないと教えています。イスラム教では、モハマドでも神ではないのに、偶像礼拝になるほど尊敬している。
② 同じ福音か?
ア)恵みのみによる救い
正統的に、私たちの救いは恵みだけによる。行動は一切、救いに関係ない。
※聖書で見ましょう。
モルモン教もエホバの証人もイスラム教も、これと対立しています。
モルモン教の異端的な教えは、恵み及び行動が必要と教えています。
エホバの証人の異端的な教えは、恵み及び行動が必要と教えています。
イスラム教の異端的な教えは、恵み及び行動が必要と教えています。
ちなみに、カトリック教会も、同じイエスを信じるが、違う福音を伝えています。恵み及び行動が必要と教えています。
イ)カルヴィン主義の教え
アルミニウス主義は異端とは言いませんが、人間の自由意志が中心となる時点と比較して、カルヴィン主義の神の主権を中心ととらえる方が聖書的だと思われるのみならず、絶対的な神の御心に立つなら、本当の異端との対立がより明確になります。カルヴィン主義は律法進学の「人間の神意」の項目にもとりあげましましたが、念のため、再度ここで見ましょう。
TULIP。。。
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」6:43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
ーヨハネ6:35-44
135:4 まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。135:5 まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。135:6 主は望むところをことごとく行なわれる。天で、地で、海で、またすべての淵で。
ー詩篇135:4-6
115:3 私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。
ー詩篇115:3
再度言っておきますが、 アルミニウス主義が異端的とは言いません。カルヴィン主義をここで取り上げることは、異端的な教えと比較するためです。新約聖書も、旧約聖書も、神の圧倒的な支配、主権を讃えています。これについて質問あるなら、ローマ書の後半でパウロが質疑応答形式で話しています。
この神の主権に対して反論する人は言います。「良い神が悪い出来事を許可することがありましょうか。」聖書が答えます。神は悪い出来事を許可しただけではなく、定めました。また重要なことに、悪い出来事を最低限に制限しました。
50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
ー創世記50:20
カルヴィン主義は「恵みの教理」(Doctrines of Grace)と呼ばれるのは、救われることはただ神の恵みによるだけなのです。アルミニウス主義はその神の恵みに「反応」して救われると聖書を解釈します。救われるために反応が必要とは異端的ではありません。カルヴィン主義の立場でも、恵みによって反応するように定めていると言います。
異端的になるのは何か決まった行動が必要とするところです。例えば、救われるためには、バプテスマや儀式がなければなど、または律法に従った生活しなければ救いがないとかは、異端的な教えになります。
モルモン教もエホバの証人もイスラム教も、これと対立しています。
モルモン教とエホバの証人の教えは、人間の使命は恵みではなく、その人の行動によります。
モルモン教の異端的な教えは、人の行動によっては、神になれると教えています。
イスラム教の異端的な教えは、恵みがなく、多くの律法に従った行動が必要と教えています。
③ 聖書は信頼できるものでしょうか?
多くのカルトの由来には、聖書の言葉、特に新約聖書の信頼性を問います。聖書の信頼性の弁証について考えましょう。
ア)間違った解釈、比喩的な解釈
文脈をみる。。。前後をみるべき。。。
イ)聖書の改悪?
モルモン書とエホバの証人は聖書が彼らの教えと違うところは、改悪されていると主張します。
26 そして、これらが小羊の十二使徒の手によってユダヤ人から異邦人に伝わってから、あなたには、ほかのあらゆる教会にも増して大きな忌わしい教会が設立されるのが見える。見よ、その教会の者たちは、分かりやすくて大変貴とい多くの部分を小羊の福音から取り去り、また主の多くの聖約も取り去ってしまったからである。27 彼らがこれをしたのは、主の正しい道を曲げて人の子らの目をくらまし、その心をかたくなにするためである。28 したがってあなたには、あの書物があの大きな忌わしい教会の手を経て出て来てからは、神の小羊の書物から分かりやすくて貴とい多くの部分が取り去られていることが分かる。
しかし、新約聖書の歴史が分かるなら、このような改悪は不可能だったことが分かります。いまでも例えば、聖書をだれかが変えようとしても、散らばっていて、すべてを一度に変更できません。例えば、全巻の聖書の本が今日、一発に全世界にあるものがすべて燃やされても、部分部分の引用が広がっていて、全文の99.9999%を再現できます。
一番最初の著者の手によって書かれた巻物が一つも残されていないのですが、かなり高い確信で手元にあるのは正確に伝わって来たことは言えます。現代の情報社会に相応しく、実際に最も古い聖書の高解像度のスキャンデータはだれでも見れます。http://www.csntm.org/
それと比較して、モルモン書の200年もない歴史に5000以上の修正されている箇所があります。http://www.mormonhandbook.com/home/5000-changes-to-the-book-of-mormon.html
イスラム教は、聖書が改悪されていないことがコーランに書いてありますので、改悪されたというイスラム教徒はコーランを信じていないと言えます。モーセ五書、詩篇、福音書は神(アラー)が与えたものと書かれていて。。。
2-87.こうしてわれ(アラー)はムーサー(モーセ)に啓典(トラ―・モーセ五書)を授け、使徒たちにその後を継がせた…
4-163.本当にわれ(アラー)は、ヌーフ(ノア)やかれ以後の預言者たちに啓示したように、あなたに啓示した。われはまたイブラーヒーム(アブラハム)、イスマーイール(イシュマエル)、イスハーク(イサク)、ヤアコーブ(ヤコブ)および諸支族に(啓示し)、またイ―サー(イエス)、アイユーブ(ヨブ)、ユーヌス(ヨナ)、ハールーン(アーロン)ならびにスライマーン(ソロモン)にも(啓示した)。またわれ(アラー)はダーウード(ダビデ)に詩篇を授けた。
3-3.かれ(アラー)は真理をもって、あなたに啓典を啓示され、その以前にあったものの確証とし、また(先に)律法(トラ―・モーセ五書)と福音を下され、
5-46.われはかれらの足跡を踏ませて、マルヤム(マリア)の子イーサー(イエス)を遣わし、かれ以前(に下した)律法(トラ―・モーセ五書)の中にあるものを確証するために、導きと光明のある、福音をかれに授けた。これはかれ以前に下した律法への確証であり、また主を畏れる者への導きであり、訓戒である。
また同時に神(アラー)の言葉を変えることは人間にできないとコーランに書かれています。
6-34.あなた以前にも、使徒たちは虚言の徒と呼ばれた。それでわれの救助を得るまで、かれらは拒否と迫害を耐え忍んだ。誰にもアッラーの御言葉を変えることは出来ない。使徒たちに関する一部の消息は、既にあなたに伝えられたのである。
コーランの6:115や10:64などにも同じように書かれています。
④ 危険性と反対論、それによる怖い歴史
ア)モルモン。異端的な教えと異端的な習慣、怖い歴史。
まずは、感情へのアピール。。。
神についての教え
モルモンの習慣?
誤った預言
歴史の嘘
考古学的証拠?
イ)エホバ。異端的な教えと違う福音、怖い歴史。
信仰のない働き
間違った預言
輸血?
ウ)イスラム。違う教えと違う福音、怖い歴史。
間違った預言
多くの危険な習慣とコンセプト
エ)カトリック。違う福音、怖い歴史。
神につながるのに、祭司と行動が必要か?
その他に注意すべき、カルトっぽい?
Prosperity?
圧力鍋のリーダーシップ
質問
①「三位一体」はなぜ重要な教えでしょうか。
②善の行いと福音の関係について述べてください。