仏教
仏教のどの宗派でしょうか?
日本の仏教は「十三宗五十六派」があるとされています。主流の3つは
①儀式や座禅で釈迦の道を守ろうとする、「真言宗」や「曹洞宗」など
②阿弥陀を大事にする「浄土真宗」など
③妙法蓮華経を大事にする「日蓮宗」など
①元祖の仏教。自力で無我になろうとする
ガウタマ・シッダールタ(釈迦)が四諦にさとり、八正道を守れば仏になれると教えました。その中で、受け止めないといけないことは、すべてが空で、「自分」は存在しないこと。これをアナッター(無我)と言います。座禅でよく用いる「般若心経」(はんにゃしんぎょう)を読んでみよう。
仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智、亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経
少し理解が難しいから、現代訳を見ましょう。 ( https://www.zen-essay.com/entry/hannyashingyou より)
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残りをそのページにてどうぞ、読んでみてください。
有名な俳句の著者、小林一茶は人生に悲しい出来事が繰り返し、妻も娘もなくした。悲しみは空であって、自分がいることを切り離せば(アナッターができれば)悲しみがなくなるという仏教の教えを受けて、一生懸命この修行に励んでも、「我」は残り、寂しい気持ちがなくなることがなかった。その中でこの詩を書いたそうです。
「露の世は露の世ながらさりながら」
ある解説は「露のようにはかなく消えるこの世の営みであることはわかっているが、この世は捨てがたいものである。」と言います。その二つ目の「ながら」の中に、自分の存在と気持ちが残っているということです。誰でも確信できる真実が一つあります。意識があって、自分が本当に存在すること。デカルトの言葉を借りて、「我思う、ゆえに我あり」。
聖書が教えています。すべての人間は神の形に似て造られて、無限の価値ある存在です。あなたは愛されるために生まれて、神自身はこれらのことを証明するために、あなたの身代わりとなって死なれて、そして新しい命を与える証拠として蘇られた。
創世記
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
...
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
ヨハネ
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
イザヤ
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
エレミヤ
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
②他力。「浄土」とダルマ―カラの「本願」。
浄土真宗は日本で最も多い仏教の教えです。その概要を説明します。
釈迦が三つの時代が来ると教えた。その三つ目、末法(まっぽう)には、人は自力で仏の道を守られなくなるほど朽ちるようになる。そこで、ガウタマ・シッダールタの他に、ダルマーカラ(法蔵)というさとりを得ようとした人は、ほかの人が八正道を自分の力で守ることができないなら、自分が仏になった時、「浄土」をみんなのために作って上げて、その国は八正道を守りやすい場所で、そこに入ったら、だれでも仏になれるように力を貸してあげようとした。その他力に頼りたい人は、仏になったダルマーカラ、アミタバ(阿弥陀)の名を10回さえ呼べば、かならず助けてあげようとした。浄土宗が大切にしている経の一つ、「無量寿経」を現代訳で読んでみよう。
(5)その次にお出ましになった仏の名を世自在王といい、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と仰がれた。そのときひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。
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本願 「法蔵菩薩の48とおりの願い」
「(十八) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」
ここで、疑問が湧きます。
(一)五逆の罪を犯した人は除かれる?( http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BA%94%E9%80%86%E7%BD%AA によると)その五つ目は「破和合僧(はわごうそう)。 教団の和合一致を破壊し、分裂させること。」十三宗五十六派のある日本で、浄土宗を開宗した「法然」などは、開宗にあたって天台仏教などと対立したので、ダルマーカラの18番の願いから除かれるでしょうか?
(二)ダルマーカラの願いは全部「わたしが仏になるとき、〇〇ができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」という形になっています。願っていたことが全部できる証拠ありますか?それ以前の問題で、ガウタマ・シッダールタは歴史的な人物として存在したことは明らかですが、そもそもダルマーカラは存在したでしょうか?「南無阿弥陀仏」(私はアミタバに頼ります)と言っているけど、それができる理由はありますか?
イエスは歴史的人物として存在しました。その生涯について、当時から12以上の書物が存在します。信者のみならず、対立したユダヤ人やローマ人も文書を残しました。歴史的に証明ができる出来事として、生きていた。そして、十字架にて死んだ。そして、死んだ後に生きていることを見た人は数多くいました。複数の目撃証言が残っています。反対していた人からも、この目撃証言があります。イエスが救うことができる証拠があります。
1コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
③日蓮とあの学会。三車火宅と方便。
日蓮宗とそれを代表する学会は、浄土の「念仏だけ」でいいという教えに反対して、釈迦の最後の教えとされている「妙法蓮華経」を大事にしています。まさに「南無妙法蓮華経」、わたしは妙法蓮華経に頼る、と言い続けています。その「妙法蓮華経」の第三に「三車火宅」のたとえ話があります。
少し長いですが、現代訳はこちらにあります。
( http://james.3zoku.com/pundarika/pundarika03.html より)
「舎利弗(シャーリプトラ 釈迦の弟子)よ。ある国のある処に、無量の資産を 持つ大長者がいたとしよう。長者の家は広く大きく、使用人は五百人を数え、子どもも二十人いたとしよう。なかには質の悪い動物や 夜叉も沢山巣くっていて、ときに殺し合いをしていた。家は古かったので、柱は朽ち、土壁は崩れ、軒も傾いていた。 そして、門は一箇所しかなかったと思いなさい。あるときこの家が火事になった。火は四方から一気に家中を包んだ。中には子供たちが いる。火事に気付かず、災禍が迫っているのに、それすら知らずに遊んでいるとしよう。長者はどのようにして 子供たちを外に連れ出したらいいのか、とっさにあれこれ思案した。自分にはまだ十分の体力と腕力があり、自分の力をもってすれば 子供たちを全員を抱きかかえて外に飛び出すこともできる、と考えた。さらに別の考えが浮かんだ、門は一つしかなくしかも狭い、このままでは 逃げ場もなく子供たちは焼け死んでしまうだろう、この恐怖の思いを子供たちに伝えて逃げ出させよう。長者は大声をあげて家の中の 子供たちに呼びかけ、危険が迫っていると叫んだが、子供たちは本当にせず、その意味も理解できず、誰も出てくるものはいない。 そこで長者は一計を案じた、 そうだ方便を使って子供たちを外に連れ出すことができるかもしれない。というのも長者は、子供たちの性格や好みをよく知っていた からである。子供たちは新奇なものが大好きだったのである。そこで長者は言った、『珍しいものがあるぞ、門の外に出てきなさい、 山羊の車、鹿の車、牛の車がここにあるぞ。すぐ出てくれば、お前たちの 好きな車をあげよう』これを聞くと、子供たちは先を争って、炎で崩れそうな家から、 門の外に次々と出てきた。長者は四辻の露地で待っていたが、子供たちが皆無事に火宅を逃れたのを見て、安心し喜んだ。 子供たちは長者の処へ来ると、口々にそれぞれの車をくれるようにお願いした。
舎利弗よ、このとき長者はこのように思った。『私の資産に限りはないから、子供たちに劣った小さな車を与えるべきではない。 子供たちは皆可愛いい我が子である。差別せず等しく七宝で飾られた最高の車をあげよう』
こうして子供たちは、等しく立派な牛車が与えられた。... それは見事な牛車であった。こうして子供たちははからずも、望んだ以上の贈り物をもらったのである。 舎利弗よ、お前はどう思うか。この長者は子供たちに嘘をついたことになるだろうか」
舎利弗は、釈尊に答えた。
「いいえ、そうではありません。長者は子供たちの命を救ったのです。初めから方便をもって子供たちを火宅から救い出そう、 と考えてやったことですから、嘘をついたことにはならないと思います。そして子供たちは見事な牛車を賜ったのですから」
釈尊は、舎利弗に語った。
「そうだ、お前の言う通りだ、舎利弗よ。...」
もっと読んでいくと説明されますが、燃えている家はこの世で、そこにいる子供は人類を表しています。車は宗教的な教えと言います。
ここで、疑問に思うことがあります。最終的な真理にたどり着くために、釈迦は「方便」を使うと言います。理由があれば、真理ではなく、便利であれば嘘でも使うと言う意味です。「南無妙法蓮華経」(私は妙法蓮華経に頼ります)というけど、妙法蓮華経も、最終的な真理ではなく、ただの方便、言い変えて、ただの嘘、である可能性はないでしょうか?
イエスは言います。「私は真理です。」嘘をつきません。
ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
箴言
14:5 忠実な証人は欺かない。欺きの発言をするのはうそつきの証人。
ヨハネ
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
質問
①仏教徒にとって、方便の哲学的な問題とはなんでしょう。
②ガウタマ・シッダールタの最後の言葉は「絶えず努力しなさい」とされています。イエス様十字架上の最後の言葉は「完了した」です。イエス様が与える希望について述べてください。