無神論について、日本の無宗教の考えも、弁証学的には同じように扱いますので、無宗教についても考えましょう。。。
哲学的弁証学「科学が証明できないもの」
「神が存在する証拠はどこにありますか?」に対して、「『唯物的(物理的・化学的)な過程』が無から有、混沌から秩序、化学から意識を作れる証拠はどこにありますか?」
「科学によって、すべて本当のことが証明できます」と言うことは科学的に証明できません。例えば論理的推論の法則は科学的に証明できません。「普遍的な道徳性」は科学的ではありません。「情報」は科学的に存在するはずだと証明できません。
科学は奇跡を拒むことができるでしょうか?それはできません。科学のもととなる自然現象も奇跡ですが、何かが存在しないことは科学的にも、合理的に実証することは難しいのです。
創造論?進化論?
聖書が教える創造について、私はこう考えています。。。
それゆえ、進化論について、こう考えています。。。
もう一つの考え方はここで見れます。(OEC) https://sixdayscience.com/2013/02/25/six-days-of-creation/
そのどちらも聖書を誤りの無い、神の御言葉として受け入れながら、科学を拒まず、むしろ科学が聖書を証明しているとします。
前提弁証学「そもそも科学ができるのは三位一体の神がいるから」
基礎的に、間違った意識は神とは合間の神(“God of the gaps”)であることです。古代の人は、自然現象をしらず、雷を「神鳴り」としました。現代の人は自然現象が分かるから、「電子の動き」にします。しかし、その電子の動きでも、神様のなさることです。神は説明できない合間の神ではなく、全宇宙のすべてを動かしている神であることを主張とします。
「信仰か科学か」と選ぶ必要があると主張する人に対して、「神なしには合理的になれるか」と聞きたいぐらいです。
無神論、無宗教の人にとって、人間は埃に過ぎません。また、考えること、思うことも、科学物質がシューッと言っているにすぎません。なのに、人の道徳性について文句を言います。埃のぶつかり合い、科学物質の違うシューッという音について何の文句があるのでしょうか。愛は集団虐殺よりよいことだと言える根性はなんでしょう。人生に意味があるかのように生きているのに、知的だけには意味がないと主張します。例えば「合理性」というコンセプトはただのシューッという音にすぎないなら、合理性に対しての確信を持つことができますか?また、確信を持てないことに対して確信を持つことができるでしょうか?
質問
①キリスト教と信仰は、科学と対立していますか。どうしてそう言えますか?
②科学の方法で証明できないものはどのようなものがありますか。例を挙げて説明してください。