献金

マルコ12:41~44 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」 

(これは細江政人先生のノートで、ヒズコールチャーチのボランティアチーム「ヒズクルー」のためです。)

 聖書から献金とは何か?ヒズコールが信じる献金のあり方について考えたいと思います。

1. 献金は、礼拝です Offering is worship

 献金は、礼拝であり、愛して捧げる行為である。だから、自発的で、強制されません。

(2 コリント 8:2-5) 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(3) 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、(4) 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。(5) そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

(2 Corinthians 8:2-5 ESV) for in a severe test of affliction, their abundance of joy and their extreme poverty have overflowed in a wealth of generosity on their part. (3) For they gave according to their means, as I can testify, and beyond their means, of their own accord, (4) begging us earnestly for the favor of taking part in the relief of the saints- (5) and this, not as we expected, but they gave themselves first to the Lord and then by the will of God to us.

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 お金にいつも躓くならば、それは自分の主がイエスさまになっていないからかもしれません。結婚して、お互いのものを自由に使うことができる、もちろん了承はいます。結婚した相手が、いちいち、自分のつかった醤油やソース、また洗濯機を使われるのを嫌になるっておかしいです。なぜなら、結婚したらお互いのためにすべてがあります。

 神様と私達もおなじ、神様は、10分の1をささげて、すべてを自由に与えました。すべてが主のものならば、主へささげることは、問題なくなります。

 ピリピの教会とテサロニケの教会はマケドニアの地方の教会で、捧げることで知られていました。パウロは、貧しい教会だから、無理をしなくて良いといっていましたが、マケドニアの教会は捧げることは、主にささげることが喜びでした。 「神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ」。。。

 自分をささげるのが礼拝、神さまは礼拝者を求めています。これは、貧しいとか、富んでいるとか、気分ではなく、また、何に使われるとか、どこにいくとかでなく、ささげものは何より主に渡すものだったのです。逆にコリントの教会は、豊かな経済があったにもかかわらず、「ささげることに乏しい」といえる教会でした。

 持っているのが豊かさでなく、与えることが豊かさの尺度なのです。学生時代に持っているものは豊かではないけど、自分自身が学生の時、アルバイトの中から、大きく捧げました。あるイースターのささげものに、私のすべてを捧げました。

(2 コリント 8:5) そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

(2 Corinthians 8:5 ESV) and this, not as we expected, but they gave themselves first to the Lord and then by the will of God to us.

 「献金をもったいない」と考えるなら、やめていいです。無理しません。誕生日プレゼントをもらった時に相手が大変でした。「本当にあげたくないけど、前回もらったから仕方ない。」と言われたら受け取れますか。神様もそのような心があります。

(出エジプト記 25:1-2) 主はモーセに告げて仰せられた。「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

(Exodus 25:1-2) The Lord said to Moses, “Tell the Israelites to bring me an offering. You are to receive the offering for me from everyone whose heart prompts them to give.

(ヨハネ4:24) 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

(John 4:24) God is spirit, and his worshipers must worship in spirit and in truth."

(ローマ 12:1)ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(Romans 12:1) Therefore, I urge you, brothers, in view of God's mercy, to offer your bodies as living sacrifices, holy and pleasing to God--this is your spiritual act of worship.

2. 献金は、神の国の喜びです Offering is a joy of the kingdom of God

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 献金は、神様と神の国の喜びを体験するものです。また、神の国を力強く拡大するものです。神の国ではもらう人ではなく、与える人が豊かです。持ち物ではなく、祝福されることが豊かです。

 このマケドニア地方の教会と言うのは、ピリピの教会とテサロニケの教会ですが、極端な貧しさと喜びが混在していた奇妙な教会でした。普通、貧しい教会と言いますと、暗くて沈んでいて活気がなく、お先真っ暗という雰囲気のように思いますが、貧しいことは確かに貧しい教会でした。でもどういうわけか、信仰の喜びがいっぱいなのです。そして自分たちが貧しいのにもかかわらず、エルサレム教会への募金活動に自分たちも参加させてほしいと願い出たのです。

 神の国の法則があります。献金には不思議な経済法則があります。「惜しんでわずかしか蒔かない人は、刈り入れもわずかです。でも惜しまずに豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かです。」とパウロは言っています。そこには一つの不思議な経済法則があるようです。「蒔くことが喜び、それは必ず刈り取るから。」しかし、自分が刈り取るかはわかりません。救いとして用いられる時があり、また、蒔いたものが、誰かの癒しにつながることもあります。蒔くことは神の国の喜びなのです。

(2 コリント 9:6-7) つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

(2 Corinthians 9:6-7) Remember this: Whoever sows sparingly will also reap sparingly, and whoever sows generously will also reap generously. Each man should give what he has decided in his heart to give, not reluctantly or under compulsion, for God loves a cheerful giver.

・献金を用意する Prepare an offering

(2 コリント 9:5) そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。

(2 Corinthians 9:5) So I thought it necessary to urge the brothers to visit you in advance and finish the arrangements for the generous gift you had promised. Then it will be ready as a generous gift, not as one grudgingly given.

・喜んで与える人を愛する God loves a cheerful giver

(2 コリント9:6-7) 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。 (7) ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

(2 Corinthians 9:6-7) Remember this: Whoever sows sparingly will also reap sparingly, and whoever sows generously will also reap generously. (7) Each man should give what he has decided in his heart to give, not reluctantly or under compulsion, for God loves a cheerful giver.

・すべてに満ちる Abound in everything

(2 コリント9:8-9) 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 (9) 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

(2 Corinthians 9:8-9) And God is able to make all grace abound to you, so that in all things at all times, having all that you need, you will abound in every good work. (9) As it is written: "He has scattered abroad his gifts to the poor; his righteousness endures forever."

・撒くものさえ与える方 The One who even supplies seeds to the sower

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(2 コリント 9:10-12) 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(11) あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。(12) なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

(2 Corinthians 9:10-12) Now he who supplies seed to the sower and bread for food will also supply and increase your store of seed and will enlarge the harvest of your righteousness. (11) You will be enriched in every way so that you can be generous on every occasion, and through us your generosity will result in thanksgiving to God. (12) This service that you perform is not only supplying the needs of the Lord’s people but is also overflowing in many expressions of thanks to God.

(ローマ 14:17) なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

(Romans 14:17) For the kingdom of God is not a matter of eating and drinking, but of righteousness, peace and joy in the Holy Spirit,


3. 献金は、信仰によるものです。 Offering is given through faith

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 神は捧げる信仰を喜ばれます。信仰をもって献金することは、神の導きを求めるべきです。

(2 コリント 8:3) 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、

(2 Corinthians 8:3 ESV) For they gave according to their means, as I can testify, and beyond their means, of their own accord,

 経済力でなく信仰の力に応じてささげます。ヒズコールの歴史のなかでも、ザレパテやレプタ二枚をささげた女の信仰を持つ人がいます。特に会堂献金のときに、一人の女性は、お年玉から、今までの貯蓄を神さまにささげるように言われたともってこられました。私は、一度断り、本当に神さまから聞いてくださいといいました。それは結婚資金で彼女は独身だったからです。しかし、彼女はささげました。そして、のちに結婚することもできました。信仰のささげものを神は喜ばれる、そして、それは、私達の信仰におおきな影響を与えます。

 クリスチャンでない方に献金をすすめないけど、寄付なら理解できます。

(ヘブル11:4) 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

(Hebrews 11:4) By faith Abel offered God a better sacrifice than Cain did. By faith he was commended as a righteous man, when God spoke well of his offerings. And by faith he still speaks, even though he is dead.

(マルコ 12:42~44) そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。(43) すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。(44) みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

(Mark 12:42-44) But a poor widow came and put in two very small copper coins, worth only a few cents. (43) Calling his disciples to him, Jesus said, “Truly I tell you, this poor widow has put more into the treasury than all the others. (44) They all gave out of their wealth; but she, out of her poverty, put in everything—all she had to live on.”

 十分の一は、私達を貪欲から守る試験です。10は試みテストを意味します。

(使徒 5:1~3) ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、(2) 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。(3) そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。

(Acts 5:1-3) Now a man named Ananias, together with his wife Sapphira, also sold a piece of property. (2) With his wife’s full knowledge he kept back part of the money for himself, but brought the rest and put it at the apostles’ feet. (3) Then Peter said, “Ananias, how is it that Satan has so filled your heart that you have lied to the Holy Spirit and have kept for yourself some of the money you received for the land?

4. 献金は、神に直接渡すものです。 We give offering directly to God

 神に直接渡すもので、神が必要だとか教会の必要のためではありません。天にささげたものを後で返してという愚かさがあります。その形として、ささげた後にその使い方をコントロールしたくなることが一つです。献金は、いつから主のもの?信仰をもってささげた時に主のものとなり、手放したことこそがささげました。同様に、永遠のいのちもイエスキリストを主と信じた、その時に受け取ります。

(マタイ 6:20) 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

(Matthew 6:20) Store up for yourselves treasures in heaven, where moth and rust do not destroy, and where thieves do not break in and steal.

 献金には不思議な経済法則があります。「惜しんでわずかしか蒔かない人は、刈り入れもわずかです。でも惜しまずに豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かです。」とパウロは言っています。そこには一つの不思議な経済法則があるようです。

5. 献金は、主を経験する特権ですOffering is our privilege in which we can experience the Lord

(2 コリント 8:4) 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

(2 Corinthians 8:4 ESV) begging us earnestly for the favor of taking part in the relief of the saints

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 主こそ神であることを知れ。主は我らを作られた。我らは主のもの。主の民、その牧場の羊である。詩篇100:3

 皆さん、知っているでしょうか。預言者エリヤが、ザレパテの寡婦のところへ行った時のお話があります。このやもめは貧しさのあまり、一握りの小麦と油でパンを焼いて一人息子と最後の食事をし、その後もう何もないから死ぬと思っていました。そこにエリヤがやってきて、その最後の小麦粉でわたしにまずパンを作って食べさせてください、それから自分たちの分を作って食べなさいと言いました。するとこの寡婦は、まず、最初に預言者のためにパンを作って与えました。それから自分たちが食べました。そうしたところ、その後の生活は、粉も油も尽きることなく食べることができたのです。ぜひ、列王記上17章で読んでみてください。つまり献金と言うのは、献金の額や与えた物ではないのです。このザレパテの寡婦が献げたのは、小麦粉と油ではなく、彼女の命、彼女の生活、彼女自身を献げたのです。そこを神様は見ていたのです。

  • 主がつくられたことを経験

  • 主のものであることを経験

  • 主の民であることを経験

  • 牧場の羊であることを経験

  • 主を通して体験